教育って何だろう?
藍が帰って来てから色々と感じるところがあります。
彼女は今、ふうさんと一緒に農園を借りて、少しずつ種捲きをしています。
彼女たちの偉いなと思うのは、父親に買ってもらうものと、自分たちの貯めたこづかいを出し合うものとを明確に区別しており、僕が買ったものに関してはきちんとお礼を言うところです。
ちなみに種は自分たちで買います。
よくテレビカメラが学校の教室に入る映像を目にしますが、以前より感じていた違和感が何なのかが最近分かりました。
それはね、極論すれば誰一人として自ら望んでその場に座っているのではないということです。
義務教育なるもの、あるいは高校だって結局はそうです。
だから誰も楽しそうでない。
なぜ、国語・算数・理科・社会なのか?
なぜ、学びたいものを自分たちに決めさせてもらえないのか?
結局、子供たちは自分たちが何を欲しているかではなく、大人が何を与えたいか、の中で10数年過ごすのです。
おかしくならない方が不思議だ。
当院の今年のテーマは「相手(患者)が望むものを与える」です。
考えてみれば、そもそものうちのテーマが、「歯科医の思う理想に患者をはめ込まない、完全なる受容をめざします」って書いてたのね、自分で。
頭ではそうであっても、身体でそうだと思うまでに4年ほどかかったというわけ。
実は、これをやらないと愛に近づけません。
結局はそこなのです。
教育にしたって、大人の思うところに子供をはめ込もうとすると愛から遠ざかります。
その先には真(まこと)はないのです。
そこで飼われている子供たちはすでに悲鳴をあげ続けて久しい。
そこで子供を飼育している大人たちは未だに気づかないまま。
日本は本当に大丈夫でしょうか?
アベノミクスなどは阿呆の言うことです。
今の時代、これからの時代を本当に見据えていたら経済は絶対に違った方向に行くべきでしょうね。
そして、経済よりも憲法改正よりも何よりも大切なのが教育なのです。
よろしいか?
マニュフェストの筆頭に教育改革が書かれていないような政党は正直申してダメですな。
昨日は京都で「子供の咬合を考える会 第17回特別講演会 ~子供の健やかな未来のために~」に参加して、特別講師の西原克成氏の話を傾聴しておりました。
メチャクチャにおもしろかった。
氏の著書は結構読んでいるので知識とすれば知っていることが多かったのですが、やはり直接聞くと違うもんですなぁ。
当院の方向性が正しいということを改めて再確認した次第です。
話の詳細は折につけサイドメニューの健康欄に綴っていきたいと思います。
あ、今日は花まつり(釈迦の誕生日)か。
最近、あまり更新しないのでついでにもう少しお付き合いください。
”悟る”に完了形はありません。
「あなたは悟った」というのは、遥かなる人生の旅路の終点を意味します。
そうしますと次はもいっかいミジンコから再スタートかな?(笑)
”悟りへの道”とはその数多の長い人生そのもののことです。
悟りは究極の愛の形、僕たちの終着駅なので、どのような生命体も意識していようがそうでなかろうが、本質的にその欲求を持っているのです。
それをことさらに求めるという行為自体がおかしい、ということにいい加減に気づかなければいけません。
ですので、僕などは悟りなどには一切無関心であります。
だって知らないうちにそこに向かっているんですからね。
悟りへの道は真摯に生きることです。
であれば、前回も述べたように、いかに自分の中に愛を発見していくか?こそがその道ではないでしょうか?
仕事も家庭もそのための場なのです。
自分を創造するとはそのことなのです。
誰もが自分の中に持っている究極の真実に気づいてもらうように、という仕事は片手間でやれます。
皆が本来持っているものですから、そのことを本業にしようというのがおかしい。
ですので、スピリチュアルだけで生計を立てている人は僕は胡散臭いと言いたいのです。
そんなこと必死になってやるこっちゃない。
ま、これに関しては異論続出でしょうな。
釈迦は教えなど一切述べていない、というのが僕の持論。
「自分の中に真実を見るよう努めなさい。そこにこの宇宙がある」
これが彼の伝えたかったことです。
四がふたつ合わさって四合わせ、すなわち八。
これまたすなわち発、撥、溌なりき。
人は生まれる日を自分で決めてくるって言ったでしょ。
だから釈迦はこの日なんだよなぁ。
あ~、長かった。
2013.4.8