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感情の本質

えぇ~、毎度一席お付き合いをお願いいたします。

こんにちお話しする内容は、知っているのと知らないのとではまるで大違いで、知っていますと世の中を随分とお気楽に過ごしていただけるという誠にありがたいお話で。

人間の感情

喜怒哀楽という言葉がございます。

人間の感情のことなのですが、実はこの中に一つだけ他と全く性質を異にするものが混じっているのであります。

それは何と”怒り”なのですが、これはどちらかというと感情の中に入れないでくれという類のものなのです。

なぜかと言うに、 それぞれの感情がわき起こる瞬間のことを想像してみてくださいませ。

嬉しい時にはとっさに「やったぁ!!」とか、「よかったあ」などの言葉とともに独特の満たされるような何とも言えない感じが体中をかけめぐりますよね。

喜びとはまさにその時の体にわく 感覚のことであります。

このように感情というものが実は体感のことなのだということをお忘れなきよう願います。

哀しみという感情

哀しみというのも同じでして、「ああ、哀しい」と頭で考えてから涙を流す人などいないのです。

あるものを見たり聞いたりした時にとっさに胸の奥が締めつけられるような感じがする、目頭が熱くなる、涙が吹きこぼれる等、これらの肉体に生じる感覚こそが哀しみの本質です。

涙を流すというのは喜びの時にも起こるわけですが、これらすべてある一つの大きな感覚が元になっておるのです。

それこそまさに、ワンネスつまり皆が本当はつながっているんだという感覚です。

忘れていたこの感覚を何らかの理由で体が思い出す時に涙が流れるようになっているのであります。

楽しいという感情

楽しいという感情も定義できなくはないのですが、この感情は喜びと同義に解釈もできるので、そうしますと喜怒哀楽というのは喜怒哀を楽しむととらえることも可能なのであります。

怒りという感情

さて、問題の怒りという感情ですが、例えばあなたがレストランで食事をしていたとしましょう。

食事の最中にあなたの前に座っていた全く知らない人が何の脈絡もなく、いきなりあなたの顔に向かってコップの水をぶっかけてきました。

普通は当然怒るわけなのですが、でも水をかけられた瞬間のことを考えてみてください。

その瞬間に怒りの感情がわくでしょうか?

何が何だかわからない、「???」というのが本当のところではないでしょうか。

でもその直後から、「なんだこの見ず知らずの奴は!!」他、色んな考えが一瞬のうちに頭にわいてきて、それから「何をするんだっ」と怒り出すわけです。

つまり喜び、哀しみと違い、その瞬間に感情が体感として現れるのではなく、自分の頭で考えたことに体が反応してムカムカしたり、はらわたが煮えくりかえるような感じになったりするのでありますね。

ということは、怒りというのは本来人間が備えている感情ではないということです。

数えきれない位多くの人が、自分の怒りという感情に対してどうにもならなくって苦しんでいらっしゃるので、もう少し別の例で詳しくお話しましょう。

本来人間が備えている感情

電車の中での携帯電話の例が最もわかりやすいと思うのですが、ある朝あなたは通勤電車で座席に座りながら夢中になって小説を読んでいます。

あまりに夢中になっているので周りの状況に全く注意を払っていない状態です。

ただ、隣の人が誰か親しい人と会話をしているくらいのことは何となく耳に入ってきています。

しばらくして、今電車はどのあたりを走っているのだろうとふと顔をあげてみると、隣の人が実は携帯で話していることがわかりました。

その瞬間あなたにはどうしようもない位のムカムカした感覚がわきあがってきます。

これがいわゆる怒りという感情なわけですが、でもね、ちょっと待ってください。

隣の人が携帯で話しているという状況は最初から同じなのです。

ただあなたが、そのことを目の当たりにして、「電車の中で携帯で話すのはマナー違反なのにこいつはどうして話しているんだ」と裁きだした瞬間から怒りがやってきます。

携帯で話している人を見た瞬間に怒りがわくと言いましたが、よくよく見ていきますと、その人を見たごく一瞬後にその行為がマナー違反であるとあなたが認識してはじめて怒りがやってくるのです。

他の喜びや哀しみと比べてもらえればわかりますが、出来事を体験した瞬間に体に起こる独特な感覚が感情なのに、怒りに関しては出来事の後に自分の頭で善悪の判断をしてその判断の結果、怒りの感覚が体にわいてくるわけです。

であるならば、あなたが何も考えない、出来事に対して何の価値判断もせずにただ体験しておれば怒りという感情は起こりようがないのでございますよ。

ここです、ポイントは。

そしてその価値判断は決してあなたがしているのではなく、人類がはるか長い期間にわたって蓄積してきたマインド(既成概念)という大変に強力なエネルギーがあなたを手足のように操っているだけなのですね。

 

ちなみにある日、世間のルールが思いっきり変わって、この時代に電車の中といえど携帯が使えないのは大変に不便であるから、使用を認めようということになったとしましょう。

そうしますと、座席で携帯で通話するのはマナー違反でなくなるわけですから、先ほどのような状況になったとしてもあなたには怒りの感情はわいてこないわけです。

いかに怒りというものが勘違いされてとらえられているかお分かり頂けたでしょうか?

 

先ほども述べましたように、怒りというのは人間が本来持っている感情ではなくて、あくまでも後天的なものであり、親や社会からいわゆる常識というか既成概念というのを教えられて、それに照らし合わせて物事を判断する癖を否応なく身につけさせられているわけです。

親や社会が怒りというものを教えなければ、つまり子供の時に周りの人間がその子の前で怒るという行為をしなければ、その子は大きくなってからも怒るということがありません。

本来備わっているものではないので、教えてもらわない限り怒るということがどういうことかわからないのですよ。

 

怒りというのは一体何なのでしょうか?

これは人類史上かなりの長期間にわたり誤解されてきたのですが、本来、怒りというのは爆発のエネルギーのことなのです。

息を思いっきり吸った状態でできるだけ長い間息を止めてみてください。

そしていよいよこれ以上止めていられないギリギリの時にいっきに息を吐き出すのですが、爆発のエネルギーとは例えて言うとそういう状態です。

創造と破壊の神といわれる”シヴァ神”、シヴァ神の顔はその瞬間は怒っています。

これは今も言いましたように、人間における怒りではなく、たとえば宇宙創造の瞬間であるならばビッグバンの時の大爆発を象徴しているのです。

どのような爆発なのかというと、それはたとえようのない位の大いなる喜びの爆発です。

 

さて、マインドとよばれる強力なエネルギーからは自力では絶対に逃げられません。

ところがディクシャのエネルギーを受けるとそれはマインドからあなたを解放するように働きます。

ディクシャについてはこちらの記事を参照して頂きたいのですが、あなたが自分でできる最大限のことについてご説明します。

あなたの隣の人が携帯で話しているのを見た次の瞬間に、その人を裁いてしまう考えがふと頭に浮かぶのは、これはもう防ぎようがありません。

ですが、あなたはそのことについて自覚することは可能です。

つまり、その裁く考えが自分のものではなくマインドが自分を利用して裁こうとしているだけだと見破るのです。

裁く考えが浮かんだ次の瞬間にそれがマインドの仕業であると注意深く自分自身を監視するのです。

するとそれ以上相手を裁く考えは浮かばなくなりますし、怒りという感情はわいてこなくなります。これを常に気をつけてやるようにしてみてください。

物事を一切価値判断せずに、善悪、損得、優劣すべての判断を捨ててみてください。

そして、出来事をそのまま体験してください。

するとどうなるかと申しますと、そこにあるのはつきつめて言いますと、怒りでもなく、哀しみでもなくすべてがひとつなんだというワンネスの感覚、それは喜び以外の何物でもないのです。

あなたがマインドから自由になる時、あなたは従来の意味での感情の起伏は少なくなり、起こることすべてに喜びを感じるようになります。

人類すべてが喜びに包まれるでしょう。

その日はもうすぐそこまで来ていますよ。

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