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12歳の決断~ある親子の物語~

それは今年の3月の初旬のことです。

その月に小学校を卒業し地元の中学に進学予定だった” I ちゃん”がこのお話の主人公です。

Iちゃん12歳

彼女は将来、自給自足の生活をしたいと考えていました。

ついこの間まではそのまま中学に行くつもりで同級生の友達と入学前に一緒に物品を取りに行く約束までしていたのです。

ところが、I ちゃんはどうせ将来自給自足生活をするのであれば、中学校での勉強は時間の無駄ではないかと思いだしたのです。

そこで彼女は母親に相談しました。

自分のビジョンを話し、どこか自給自足生活を実地に学べるところを知らないかと聞いたのです。

もちろん母親はそんなところを知るはずもないので、普段から子供たちをキャンプに連れて行ってくれたりして面倒をみてくれている知り合いの男性に電話して聞いてみるように I ちゃんに言いました。

するとなんとその男性の答えは・・・「知ってる。あそこだったら信頼して大丈夫というところがある」というものでした。

自給自足生活を実地に学べる場所

そこは北陸にあるのですが、その男性の紹介ということでまずは体験宿泊をすることにしました。

出発前に I ちゃんは母親に聞きました。

わたしが中学に行かなければ、お父さんとお母さんは恥ずかしい思いをするか、それと将来わたしが就職しようと思った時に何かそのことで不利を受けるか、というものです。

母親は「お母さんもお父さんもあなたが選んだことで恥ずかしい思いをすることはないし、就職についてはその相手の人によるけれども、あなたを取り囲むような人はきっとそのようなことはないと思う」と答えたそうです。

理想の場所を見つけた!

さて、その結果どうなったでしょうか?

I ちゃんは「わたしの理想の場所を見つけた」とのことで予定の二泊三日が過ぎても帰ってこず、そのままそこに滞在し続けました。

そのコミュニティーは60代の男性一人、女性は40代から60代が四人の計五人が共同生活をしているのですが、カフェを併設していたりゲストハウスがあったりするものの、基本的に自分たちの生活が第一であり、たまに外部の人も短期間受け入れることもあるという程度のもので、別に教育機関でも何でもないのです。

 

もう3月も下旬になっており中学の入学式も間近にせまっているので、とにかく早く白黒つけなければなりません。

最終の土曜日に I ちゃんの両親はそのコミュニティーまで車を走らせました。

高速で約三時間半かかり着いた時には夜の九時をまわっていました。

まだ雪が残っているので薪ストーブがたかれているカフェで向こうの方々との話し合いとなったのですが、話しによると I ちゃんはすごく一生懸命にやったみたいで、大人がやっていることを横でじっと観察してはいろいろ質問したり、手伝いでも次に何をすればいいのかを聞いたりと、とにかく今時の子にしてはめずらしく積極的な姿勢だったそうです。

そこの人たちが今までに接した多くの若者がいわゆる不登校だったり、ひきこもりだったりという、どちらかというと社会にうまく適応できない人が多かったため、逆の意味でこの子の親の顔が見たいと思ったほどだったそうです。

その後

ただ、12歳の子を預かるとなるとさすがに責任も生じますし、そこの近くにある学校に通いながら週末の休みだけそこで農作業などを手伝うというのではどうか、という提案でした。

その学校というのはいわゆるシュタイナー教育のようなものを行っており、基本的に寮生活をするところです。

その提案に対して父親は次のように述べました。

「僕は娘のことを全面的に信頼しているので、彼女の選択をできるだけ応援してあげたいと考えています。彼女がそこの学校で学びたいというのであればかまいませんが、今彼女は自給自足を学びたいという明確なビジョンを持っているようですので、果たしてどうかという気がします。教育というのは子供が自分の人生を創造するのを手助けをするのが目的であるならば、こちらで預かって頂けるのならそれが最善だと思います」

・・・その時点でもう夜も遅かったので両親はお風呂を頂いて(当然、五右衛門風呂)ゲストハウスで休みました。

ちなみに母親はすきま風のため、父親は早朝3時半に鳴きだしたチャボの声のためにあまり寝つけなかったみたいで、チャボはその後ウトウトしだした父親の夢の中にまで出てきて、枕元で卵を産みまくって睡眠の邪魔をしつづけたそうです(笑)。

本人の意思確認

さて翌日、朝食後にもう一度両親は I ちゃんと話し合い本人の意思を再確認したのち、本人の口から代表の男性にそこでお世話になりたいのでお願いできませんか? と伝えさせたところ、なんと「わかりました。やってみましょう」という返事だったのです。

そこの代表の男性の学生時代はちょうど大学紛争の真っ最中で、あの時、嫌が応にも思い知らされたのは反体制というのは何ものも生まなかったということです。

そこへいわゆる不登校児ではなく普通の子の親が、今の教育制度に反対してとかでもなく、ただ娘が選択したことを応援したいということでやって来ている。

「いっちょう、やったろか」という気になったのかもしれません。

 

ちろん義務教育ですからどこかの中学に籍をおかなければなりません。

それから色々とやっかいな問題がでてきましたが、さまざまな大人の協力と理解のもと、無事ちゃんと籍も得ることができ I ちゃんは毎日本当に生き生きと暮らしているそうです。

 

ところで、あなたはこの話をお聞きになってどのように思われますか?

その両親によると周りの反応は様々だそうです。

・すごい羨ましいし、わたしもそこを見学したい

・よくそんなことを許したね?

・親としてよく決断をしたね

・一体、子供の将来をどう考えてるの?あまりにも無責任じゃない? etc.

 

その両親に話を聞くと彼らは何かを決断したわけでもないし、まして子供の選択を許す許さないって何を言ってるのかが理解できないそうです。

シャングリラからの伝言をよく理解されている方にはお分かりだと思いますが、これら他の親たちの反応の根底にあるものはすべて世間の常識とされるもの、自分たちの親から刷り込まれたもの、です。

つまりそう反応することによって、自らの内にある人生の選択の規範が崩れるのを防いでいるわけです。

自己防御ですね。

 

この話は別に大人に対する訓話ではありません。

子供の自由な選択を尊重しようという話などではないのです。

実は話には続きがあって、そこまで聞かないと本当のところなどわかりっこないのですよ。

娘のことを心から愛していたことに気づいた

I ちゃんを預かってもらうことが決まったその日の午後、母親は泣きながら I ちゃんを抱きしめました。

父親は「十分楽しんでくれ!」と言って彼女の肩をたたきました。

そして帰路についたのですが、帰りの高速で車を運転しながら父親は次のようなことを思い起こしていました・・・

~ああ、あの時、夏休みの高原プールであいつが「おとうさ~ん!このヒモ引っぱって~!」と浮き輪につかまりながら叫んだ時、もっともっと引っぱってあげればよかった。

あの花見の時の公園で遊具のタイヤに乗って「おとうさ~ん、押してぇ~」と頼まれた時、もっともっと子供たちが飽きるまで押してあげればよかった。

・・・もう二度と戻らない I ちゃんとの子供の時の親子の時間を考えると、涙が次から次へ出てきて止まらなかったそうです。

切なくって、哀しくって、愛おしくって、その時~初めて彼は娘のことを心から愛していたことに気づいたのです。

奥さんの方はもうずっと泣きっぱなしでした。

 

この父親は後から次のように話してくれました。

彼は彼の両親が年いってからの子供なので、小さい時に今の親がするように親と遊んだことがなかったそうです。

もちろん、全然かまってもらえなかったというわけではありませんが、一緒に公園で遊んだりした記憶はないらしいのです。

だから彼自身が父親になっても、なぜかしら子供と遊ぶということが面倒くさくてうまくできなかったらしいのですね。

 

上の話をある側面からみると、この家庭に問題があり I ちゃんはそこを飛び出したともとれなくはありません。

でも父親は違う見方をします。

彼は子供が親を助けるために生まれてきていることを理解している人です。

彼によると、I ちゃんは表面的には気付いていなくても彼女の魂は当初の目的である親を助けるということが完了したことを知った。

そこで、もうわたしが付いていなくてもこの親たちは大丈夫だと思い、今度はもう一つの彼女の人生の目的である、自分が自由に生きることによって他の子供たちの心を解放していく、そちらの道を歩みだしたのだと。

そして前半戦の総仕上げとして自分の両親に、あなたたちは本当はちゃんと人を愛する気持ちを持っているんだ、そこに気がついてね、というメッセージを残したのです。

父親も母親も心の奥底に自分たちは人を愛することができない人間なのではないかという思いを沈めていました。

実はね、I ちゃんはね、本当は天使だったのです。

さあ、あなたはこの話を聞いてどう思われますか?

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どうして勉強しなくちゃいけないの?

世に言う勉強ができる子、その子が将来大手企業に就職する、あるいは医者や弁護士、官僚になる。

そしてそこで出世をしていき世間からも認められ、経済的なことも含めて非常に余裕のある暮らしをしている。

さあ、そういった人は現在でもたくさん存在するのですが、その人たちが幸せかというとそうではありません。

本当に幸せな人は周りを幸せにしていきます

今の社会はどうでしょう?

もしあなたが「いや、私は違う」というなら、それは例によって幸せの意味を誤って解釈しているか、自分自身をきちんと見ていないのです。

ということはね、勉強ができるということは全く世間のため社会のためにならないというか、関係ないということです。

まずね、この現状をしっかり認識する必要がありますよ。

あなたがどんな反論をしようとも、明治以降日本人が築き上げてきた社会の現状がすべてを物語っているのです。

読み書きソロバン

読み書きソロバンといいますが、確かにそれ位は強制してもいいかなとは思います。

ただね、元々人間はテレパシーでコミュニケーションしていたのです。

今でも進んだ文明の惑星ではそうなのです。

言葉というのは非常に便利なように思いますが逆に制約も多くて、例えばあなたは目の前のオーロラをそれを見ていない人にどのように伝えますか?

これテレパシーだと目で見ているイメージをそのまま相手の脳に送るので一発です。

数字というのも今のような経済では役立つでしょうが、自分がもらうものと相手に与えるものの価値を計ろうとするから算数が必要なのであって、相手が必要なだけ与えることが自分の歓びだという世界では無用の長物です。

 

他の自然科学もそうなのですが、元来起こっている現象に興味を持ってどうしてそうなるのだろうと考えた時に、初めて調べてみたいとなるわけですね。

まずは観察ありきなのです。

それを今は〇〇の法則とか公式とかを覚えるところから入っていきます。

そんなもの面白いはずがないでしょう。

 

医学部でも歯学部でもそうなのですが、教養課程が終わればまず基礎医学から入ります。

解剖学とか生化学とか細菌学とかですね。

普通は、そんなの当然でしょと思いますよね。

でももし、これを臨床の現場を様々な角度から見学するというところから入るとどうでしょう?

まず手術や医師が診断、治療をしているところ、看護の実地を観察するのです。

すると本来その道に進むべき人は当然興味を抱くでしょう。

ここで興味を抱かないのであれば医学部に入学したこと自体が間違っていたのです。

興味を抱くとその根底をなしている基礎医学を勉強したいと思うのは当然の成り行きです。

 

つまり今の教育システムはすべて順序が逆転しているのです。

現象を観察して興味を抱くから学習する、というのが本来で、その時に知りたいことを学べる手助けをするのが教育です。

一方的に知識を詰め込むのは教育ではありません。

私は大学院を出ているので歯学博士なのですが、歯科の専門的な知識は別としてそれ以外の小中高大と勉強してきたことは一切役に立っていませんし、必要もありませんでした。

唯一英語だけはまあ役に立ってるともいえますが。

だって、因数分解とか行列とかそれが専門の人はともかく、社会人になってどこで出てきます?

いらないでしょう、そんなもの。

 

数学というのはこの宇宙のある一面のすごく面白いところを表しています。

であるならば、子供に提示する時に今とは違ったやり方があるはずなのです。

世界中で戦争がなくならないのも差別がなくならないのも歴史を教えるからです。

もしね、歴史を全く教えなければ今の日本と中国や韓国のような関係は起こり得ないのです。

不幸にして争いがあった大人たちはその記憶を封印して、次の世代の子供たちには新たな関係を築くように努力すべきでしょう。

 

差別のことを子供に教えなければ子供たちは人を差別するということを知り得ません。

それが何かということが全く分からないのです。

大人が教えるから人を差別して自分が優位に立つなんてことをするようになるのです。

じゃあ勉強って何のためにあるのでしょう?

はっきり言います。

今の勉強は大学や会社が学生を選抜するための道具でしかありません。

そのために小学校の時から面白くもないことを強制されているのです。

小学校なんてその上に美味しくもない給食をこれまた強制的に食べさせられるんですから、そりゃ学校に行きたくもなくなるというものです。

通知簿を見てごらんなさい。

評価の項目に”興味を持って学習している”なんてのがあったりします。

“その子が何に興味を持っているか?”ということには全然興味がもたれません。

そんなアホな!!

 

え?

勉強もしない奴が医者になんかなってもらったら困るって?

いえ、そういうふうにはなりません。

ただ医学部の入学の時点でくだらない選抜などしないというだけの話です。

まず何をやりたいか、何になりたいかという希望が優先されます。

そして医学部であればまず医療の現場を見学し興味を抱けばそこから先へ進みます。

あんなふうになりたいと思うのであれば、それに必要なことは興味を持って学習されるでしょう。

最終的に国家試験で未だ免許を与えるに至らずと判断されれば、再度挑戦するか別の道を選ぶかすればよいのです。

ん?

そんなシステムだと社会の底辺を支えるような仕事につく人間がいなくなるじゃないかって?

う~ん、何をもって社会の底辺と言ってるのかわかりませんが、例えば私が生まれ育った大阪市東成区というところは小さな工場がたくさんあるところです。

私は幼い頃から休みの日でも関係なくネジ工場や鉄筋の工場で働く男の人を見て育ちました。

でも私はそこで働く人たちが医者や歯医者に劣るなんてこれっぽっちも思いません、思う人は思うでしょうけど・・・。

まあ、そうやって生まれた医者の方が今よりよっぽどマシだと思うのですね。

私の医者の定義

私、時々辛辣なことを書きますが私の医者の定義は次のようなものです。

”非常に記憶力に優れている人。そしてある枠組みの中では優れた理解力を示すが、その枠組みからはずれるとその理解力は全く用をなさない”

私の兄は股関節の領域ではそれと知られた整形外科医です。

また大学のサークルの先輩にも優秀なお医者さんが何人もいらっしゃいます。

それでも上の定義は変わりません。

というより、これ以上医者の実態を正確に表している言葉はないだろうとさえ思うのです。

 

そろそろ核心です。

勉強なんてまったく必要ありません。

でも何かになりたい、何かの資格を取りたいと思えば当然新しい知識や技術を覚えなければなりません。

大切なことは自分がやりたいこと、楽しいことのためにそれを身につけるのだということです。

学び、習う、これこそが人が一生絶対にやり続けることなのですよ。

この文章と「12歳の決断」のところを印刷して校長先生に見せてごらんなさい、

きっと狂ったように反論してくるから(笑)

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