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こどもの心

子育てと教育

まず親が認識しておかなければならないことは、本質的に子供というのは自分が何をしに生まれてきたのかを知っているということです。

あくまで潜在意識のレベルですが。

ですから、親が子供のためにするべきことは自由に自分を表現する場を提供してあげることにより、自分が何をしに来たのか思い出す手伝いをしてあげることです。

今、世間を見渡してみますと、ほとんどの親が自分にとって好都合な“良い子”を作り出そうとしています。

自分が親として世間から認められたい、その一語に尽きますね。

ペンギンの親子

子供にまかせてみる

教育というのは例えて言うなら植物にとって最低限必要な水と土壌を提供してあげることにより自ら育つのを待つという行為です。

あとは、本人が必要と思えば教えてもらうのではなく学ぶというふうに変化しなければなりません。

知りたいと思うから学ぼうと思うし、学ぶことが楽しいのです。

読み書きくらいは最低限、強制的にでも教える必要はあるでしょうが、それ以外のことは本人に思い切って任せてみる勇気が現在大人の方に求められています。

既成概念を脱ぎ捨てる

本当に子供のためを思うのなら今までの既成概念は脱ぎ捨てなければなりません。

すべては子供が将来生き生きと人生を楽しむためにあるということです。

日本はここ数十年ずっと学歴偏重の社会でした。そしてその傾向はいまだに変わりません。

でも過去の教育の結果が今の社会を作っているわけです。

ここでは多少きついことを書きますが、文系であれば有名進学校に入って東大に入学し、国家上級試験に合格して官僚になるのが最高の出世街道なわけです。

理系では同じく京大や慶應の医学部に入って医者になるのがきっと一番すごいのでしょう。

でもね、今の日本の現状を見てごらんなさい。

医療の現実を見てごらんなさい。

確かに物質的な面では非常に進歩しているでしょう。

たった10年前と比べても大変便利な世の中になっています。

そして、医療技術も進化しています。

でも日本人は今、はたしてどれだけの人が幸せでしょうか?

要するに、根本的なところで何かが間違っていたのです。

別に責任者を探す必要はないのですが、そのことをまず認める必要があります。

こども自身がわかっていること

もう一度言います。

あなたのお子さんは何をしに生まれてきたのか、きちんとわかっています。

そこを信じてあげてください。

変な枠で子供を囲わないで下さい。

できないって決めつけないでください。

自由に羽ばたける空間を作ってあげれば、子供は時が来れば必ず行くべき方向に飛んでいきます。

他人と比べる必要は全くありません。

社会に取り残されるんじゃないかと心配する必要も全くありません。

いいですか、人間はお金を稼ぐために生まれてきたのではありません。

人よりすぐれて人に認められるために生まれてきたのでもありません。

人間はこの世界で自由に飛び回るために、そして色んな景色を見るために生まれてきたのです。

どこをどう飛ぶかは本人次第!!

 

あなたが信じなくて誰があなたのお子さんを信じますか?

逆に言うなら、お子さんはあなた以外の誰に信じてもらえるのでしょう?

絶対に大丈夫!!!

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続・子育てと教育

子育てとは何かをもう一度考えてみましょう。

 

何事でも考え方は同じで、まずは基本に返ることです。

その基本とは、人は進化するために存在するということ。

それは生命の目的というよりは、生命が持っている本質的欲求といえます。

そして、決して個人やある世代だけの問題ではなく、世代を超えて延々と進化し続ける、それこそが人類の目的です。

個人から自分の家系へ、自分の家系から自分の住んでいる自治体へ、自治体の集合体である国へ、そして全人類が歴史の流れの中でというふうに、進化は広がりをみせなければなりません。

その中での子育てなのです。

 

あなたが自分の人生の中で成し遂げられる進化には限りがあります。

それを受け継いでいくのが子供たちです。

ということは、親がどこまで進化・成長出来るかがポイントであり、その分だけ子供はより先から自分の人生をスタートできます。

ほとんどの親はこのことを全く理解していません。

自分のことは棚に上げて、子供にだけどうさせようかと考えています。

それでは子育ては絶対に上手くいきません。

根本がわかっていないからです。

子育ての中で親も育つ。

そういう共同創造の仲間なのです。

決して子供が親より劣っているわけではありません。

 

親は子供に対して無償の愛を与えるということを学びます。

それと躾は別のものだということも学びます。

愛の実践の場が夫婦であり親子、つまりは家庭なのです。

子育ての定義とは、「人類が進化し続けるために、時間という概念の中で、その主役をうまく次の世代に引き継いでいくこと」 とでもしておきましょうか。

 

教育には三つの意味合いがあります

ひとつ目は、社会生活、家庭生活を送る上で大切なルールを教える、いわゆる躾です。

ふたつ目は、上で述べたように子供が進化・成長できるように知恵を与える、これは方法論であり、いわゆる物事を為す時のHow toです。

みっつ目は、本人が自立してより深い洞察力を得るための智慧を与えること。

実際には智慧というのは与えることは出来なくて、本人が叡智と繋がれるように宇宙的な話を理解させることになります。

いずれにせよ、人間の進化・成長とは何か?を理解し、ある子供がどこへ行こうとしているのかをよく大人が見極めていないと出来ない話です。

今、世間で行われている教育とは(学校も、塾も、家庭でも)かけ離れていますね。

その理由は、「教育とは何か?」はそれが正しいかどうかは別にして、少なくとも教育者はどこかで習うでしょうが、それを人はなぜ生きるのかという根源的問題と有機的に結び付けていないからです。

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いじめと許し、そして癒しへ

これは、私の知人から聞いた話です。

彼女は比較的新しい分譲マンションの一階に住んでいますが、同じ一階に住むAさんは上の階に住むBさん宅からの騒音がひどいというのでBさんに苦情を言いに行きました。

その言い方にも問題があったのかもしれませんが、お子さん同士が幼稚園の同級生であることも後からわかり、二つの家庭の間はかなり険悪になりました。

そこで文句を言われた方のBさんは同じマンションのほかのお母さんたちと結託してAさん親子を村八分のようにしたそうです。

そのマンションには幼児用のプレイルームがあるみたいで、これもかえって悪い方に作用したみたいです。

結局Aさん一家はそのマンションを出て行かれました。

大人の世界の現実

皆さん、これが大人の世界の現実です。

これで子供の中でいじめがなくなるでしょうか?

でもここに登場する母親たちは皆、ニュースでいじめによる事件を見ては心を痛めていたはずなのです。

なのに自分のことになると、このような結果を招いてしまい、しかもそのことに気づいていない。

これはどちらが良い悪いという話ではありません。

完全なる愛の欠如、分離感のなせる業です。

 

さて、このA、B両家族は今後どうなるでしょうか?

カルマ(因果)の法則から言うと、この方たちには必ず同じようなことが巡ってきます。

一緒に村八分にかかわった人たちも同じです。

ただし、いじめる側といじめられる側は入れ替わるかもしれません。

悲しいことにこれは両家の子供たちにもふりかかります。

この事件の根本にある原因を克服しない限り何回も何回も同じことがやってきます。

これが宇宙の曲げようのない法則です。

 

我々は今までの輪廻転生の中で十分に体験しつくせなかった、あるいは克服できなかったテーマをいくつか決めて生まれてきます。

今回のAさん、Bさんの場合で言うとそのテーマのうちの一つにどちらも許しというのを持っていたと思われます。

だからこそ同じマンションの上下に住むようになったのです。

お互い無意識にその状況を作りだしたのですね。

宇宙の物理は非常に精緻にできていて、人知の遠く及ばないところにあります。

そして克服できなかった課題は次にはより厳しくなってやってきます。

何故ならそれこそが本当のだからです。

自分を許すのと自分を愛すること

実はこの許しというテーマは多くの人々が持って生まれてくるテーマでありまして、なぜならそれだけ人間にとって許すということが難しいからです。

これはつきつめていくと他人を許すだけでなく、そうなってしまっている自分を許す ということにつきあたり、これが極めて難しい。

人にとって自分を許すのと自分を愛することが究極の二大テーマかもしれません。

日本だけでなく、世界中で起こっているすべてのことに関して我々は決して無関係ではありません。

我々の中に否定的な思いがあればそれがそのまま現実化します。

犯罪者の心の闇を我々一人一人が持っているのです。

ですから世の中を良くしたいと心から願うのであれば、相手を罰するのではなく自分のうちに深く沈めてしまっている闇の部分、一番見たくない部分に光を当てなければなりません。

我々各人が自分を見つめ直すこと以外にできることはないと断言できます。

見つめて光を当てればそこに癒しのエネルギーが自分だけでなく、時空を超えて周りに広がっていくのですよ。

 

祈り ~わたしの子供たちへ~

もしあなた達がいじめられている子を見たら

その子の本当の友達になってあげなさい

その子をいじめから守るために

そしていじめている子の本当の友達になって

抱きしめてあげなさい

その子をいじめから守るために

でも本当に癒しが必要なのは

の子らの両親たちなのです

逃げないで 戦わないで

みんな苦しいのです

祈りましょう

あとはすべての良きことが起こります

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12歳の決断~ある親子の物語~

それは今年の3月の初旬のことです。

その月に小学校を卒業し地元の中学に進学予定だった” I ちゃん”がこのお話の主人公です。

Iちゃん12歳

彼女は将来、自給自足の生活をしたいと考えていました。

ついこの間まではそのまま中学に行くつもりで同級生の友達と入学前に一緒に物品を取りに行く約束までしていたのです。

ところが、I ちゃんはどうせ将来自給自足生活をするのであれば、中学校での勉強は時間の無駄ではないかと思いだしたのです。

そこで彼女は母親に相談しました。

自分のビジョンを話し、どこか自給自足生活を実地に学べるところを知らないかと聞いたのです。

もちろん母親はそんなところを知るはずもないので、普段から子供たちをキャンプに連れて行ってくれたりして面倒をみてくれている知り合いの男性に電話して聞いてみるように I ちゃんに言いました。

するとなんとその男性の答えは・・・「知ってる。あそこだったら信頼して大丈夫というところがある」というものでした。

自給自足生活を実地に学べる場所

そこは北陸にあるのですが、その男性の紹介ということでまずは体験宿泊をすることにしました。

出発前に I ちゃんは母親に聞きました。

わたしが中学に行かなければ、お父さんとお母さんは恥ずかしい思いをするか、それと将来わたしが就職しようと思った時に何かそのことで不利を受けるか、というものです。

母親は「お母さんもお父さんもあなたが選んだことで恥ずかしい思いをすることはないし、就職についてはその相手の人によるけれども、あなたを取り囲むような人はきっとそのようなことはないと思う」と答えたそうです。

理想の場所を見つけた!

さて、その結果どうなったでしょうか?

I ちゃんは「わたしの理想の場所を見つけた」とのことで予定の二泊三日が過ぎても帰ってこず、そのままそこに滞在し続けました。

そのコミュニティーは60代の男性一人、女性は40代から60代が四人の計五人が共同生活をしているのですが、カフェを併設していたりゲストハウスがあったりするものの、基本的に自分たちの生活が第一であり、たまに外部の人も短期間受け入れることもあるという程度のもので、別に教育機関でも何でもないのです。

 

もう3月も下旬になっており中学の入学式も間近にせまっているので、とにかく早く白黒つけなければなりません。

最終の土曜日に I ちゃんの両親はそのコミュニティーまで車を走らせました。

高速で約三時間半かかり着いた時には夜の九時をまわっていました。

まだ雪が残っているので薪ストーブがたかれているカフェで向こうの方々との話し合いとなったのですが、話しによると I ちゃんはすごく一生懸命にやったみたいで、大人がやっていることを横でじっと観察してはいろいろ質問したり、手伝いでも次に何をすればいいのかを聞いたりと、とにかく今時の子にしてはめずらしく積極的な姿勢だったそうです。

そこの人たちが今までに接した多くの若者がいわゆる不登校だったり、ひきこもりだったりという、どちらかというと社会にうまく適応できない人が多かったため、逆の意味でこの子の親の顔が見たいと思ったほどだったそうです。

その後

ただ、12歳の子を預かるとなるとさすがに責任も生じますし、そこの近くにある学校に通いながら週末の休みだけそこで農作業などを手伝うというのではどうか、という提案でした。

その学校というのはいわゆるシュタイナー教育のようなものを行っており、基本的に寮生活をするところです。

その提案に対して父親は次のように述べました。

「僕は娘のことを全面的に信頼しているので、彼女の選択をできるだけ応援してあげたいと考えています。彼女がそこの学校で学びたいというのであればかまいませんが、今彼女は自給自足を学びたいという明確なビジョンを持っているようですので、果たしてどうかという気がします。教育というのは子供が自分の人生を創造するのを手助けをするのが目的であるならば、こちらで預かって頂けるのならそれが最善だと思います」

・・・その時点でもう夜も遅かったので両親はお風呂を頂いて(当然、五右衛門風呂)ゲストハウスで休みました。

ちなみに母親はすきま風のため、父親は早朝3時半に鳴きだしたチャボの声のためにあまり寝つけなかったみたいで、チャボはその後ウトウトしだした父親の夢の中にまで出てきて、枕元で卵を産みまくって睡眠の邪魔をしつづけたそうです(笑)。

本人の意思確認

さて翌日、朝食後にもう一度両親は I ちゃんと話し合い本人の意思を再確認したのち、本人の口から代表の男性にそこでお世話になりたいのでお願いできませんか? と伝えさせたところ、なんと「わかりました。やってみましょう」という返事だったのです。

そこの代表の男性の学生時代はちょうど大学紛争の真っ最中で、あの時、嫌が応にも思い知らされたのは反体制というのは何ものも生まなかったということです。

そこへいわゆる不登校児ではなく普通の子の親が、今の教育制度に反対してとかでもなく、ただ娘が選択したことを応援したいということでやって来ている。

「いっちょう、やったろか」という気になったのかもしれません。

 

ちろん義務教育ですからどこかの中学に籍をおかなければなりません。

それから色々とやっかいな問題がでてきましたが、さまざまな大人の協力と理解のもと、無事ちゃんと籍も得ることができ I ちゃんは毎日本当に生き生きと暮らしているそうです。

 

ところで、あなたはこの話をお聞きになってどのように思われますか?

その両親によると周りの反応は様々だそうです。

・すごい羨ましいし、わたしもそこを見学したい

・よくそんなことを許したね?

・親としてよく決断をしたね

・一体、子供の将来をどう考えてるの?あまりにも無責任じゃない? etc.

 

その両親に話を聞くと彼らは何かを決断したわけでもないし、まして子供の選択を許す許さないって何を言ってるのかが理解できないそうです。

シャングリラからの伝言をよく理解されている方にはお分かりだと思いますが、これら他の親たちの反応の根底にあるものはすべて世間の常識とされるもの、自分たちの親から刷り込まれたもの、です。

つまりそう反応することによって、自らの内にある人生の選択の規範が崩れるのを防いでいるわけです。

自己防御ですね。

 

この話は別に大人に対する訓話ではありません。

子供の自由な選択を尊重しようという話などではないのです。

実は話には続きがあって、そこまで聞かないと本当のところなどわかりっこないのですよ。

娘のことを心から愛していたことに気づいた

I ちゃんを預かってもらうことが決まったその日の午後、母親は泣きながら I ちゃんを抱きしめました。

父親は「十分楽しんでくれ!」と言って彼女の肩をたたきました。

そして帰路についたのですが、帰りの高速で車を運転しながら父親は次のようなことを思い起こしていました・・・

~ああ、あの時、夏休みの高原プールであいつが「おとうさ~ん!このヒモ引っぱって~!」と浮き輪につかまりながら叫んだ時、もっともっと引っぱってあげればよかった。

あの花見の時の公園で遊具のタイヤに乗って「おとうさ~ん、押してぇ~」と頼まれた時、もっともっと子供たちが飽きるまで押してあげればよかった。

・・・もう二度と戻らない I ちゃんとの子供の時の親子の時間を考えると、涙が次から次へ出てきて止まらなかったそうです。

切なくって、哀しくって、愛おしくって、その時~初めて彼は娘のことを心から愛していたことに気づいたのです。

奥さんの方はもうずっと泣きっぱなしでした。

 

この父親は後から次のように話してくれました。

彼は彼の両親が年いってからの子供なので、小さい時に今の親がするように親と遊んだことがなかったそうです。

もちろん、全然かまってもらえなかったというわけではありませんが、一緒に公園で遊んだりした記憶はないらしいのです。

だから彼自身が父親になっても、なぜかしら子供と遊ぶということが面倒くさくてうまくできなかったらしいのですね。

 

上の話をある側面からみると、この家庭に問題があり I ちゃんはそこを飛び出したともとれなくはありません。

でも父親は違う見方をします。

彼は子供が親を助けるために生まれてきていることを理解している人です。

彼によると、I ちゃんは表面的には気付いていなくても彼女の魂は当初の目的である親を助けるということが完了したことを知った。

そこで、もうわたしが付いていなくてもこの親たちは大丈夫だと思い、今度はもう一つの彼女の人生の目的である、自分が自由に生きることによって他の子供たちの心を解放していく、そちらの道を歩みだしたのだと。

そして前半戦の総仕上げとして自分の両親に、あなたたちは本当はちゃんと人を愛する気持ちを持っているんだ、そこに気がついてね、というメッセージを残したのです。

父親も母親も心の奥底に自分たちは人を愛することができない人間なのではないかという思いを沈めていました。

実はね、I ちゃんはね、本当は天使だったのです。

さあ、あなたはこの話を聞いてどう思われますか?

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飛べない小鳥

もし、良い親になりたいと思うなら、良い子育てをしたいと思うなら、まずあなたのすべきことは子供があなたに携えてきたメッセージをしっかり受け止めることです。

子供は自分たちの言動を通して親が捉われているものを見せてくれます。

それはほとんどの親にとってあまり心地良いものではありません。

それどころか心底むかつくでしょう。

でも、これは何度繰り返しても言い過ぎではないと思うのですが、あなたが自分の捉われているものから解放されない限り、あなたはニュートラルな状態で子供と接することは不可能です。

これはもう二者択一です。

勇気を出して自分自身を見つめ直すか、恐怖心に縛られて子供をあなたの傷ついた心のはけ口にするか、どちらかですね。

 

でも子供の立場から見れば、ある意味命がけなのです、

あなたを地獄から助け出すために。

そのことにより親の愛情が逃げていくかもしれないことは百も承知で、でもあなたを愛しているから、本当にあなたのことが大好きだから、自分のことなんかどうでもいいと思って、あなたの心を映す鏡の役割を引き受けているのです。

 

あなたがもし優しい母親を演じているなら、その優しさはどこからくるのでしょうか?

多くの場合、自分が子供の時に傷ついたことがあったので、自分の子供にだけは優しくしようということのようです。

それも捉われなのですよ。

 

小学校に入って同級生に暴力を振るう子がいたとしましょう。

まあ暴力と言うほどひどくなくても、後から母親が相手の子の家に謝りに行かなくてはいけない位のものであったとしましょう。

この加害者側の子は例外なく家庭において自分の親に暴力を振るわれています。

こういうと、たぶんほとんどの人から反発を受けるのですが、あのね、子供にとっての暴力というのは何も親に殴られたということばかりではないのです。

言葉の暴力だってあります。

それも親から見ればなんてことない言葉であっても、子供にとってはすごく傷つくこともあるのです。

子供を無視することも同様です。

これは本当に肝に銘じておいて欲しいのですが、子供は基本的に非常に自由な生き物です。

エントロピーが高いというか、放っておけば何だってやりかねないのが子供なのです。

 

さて、親が常識に強く縛られている場合、子供はそれを打ち破るように振る舞うことがあります。

それにより親の捉われに気づいてもらおうとするのですが、その時親は自分の常識で子供の方を縛ってしまいます。

「なぜ普通の子のようにできないんだ!」と。

自由に羽ばたきたい子供を縛るというのは、家の柱にそれこそロープでぐるぐる巻きにしているようなもので、はっきり言って子供に対するりっぱな暴力行為です。

このことに気づいていない親のなんと多いことか!!

 

わたしは、その子に代わって泣いてあげましょう。

その子に代わって叫びましょう。

「お父さん、お母さん、大好きだよ。でもお願いだから、ぼくの気持もわかって欲しい!」

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どうして勉強しなくちゃいけないの?

世に言う勉強ができる子、その子が将来大手企業に就職する、あるいは医者や弁護士、官僚になる。

そしてそこで出世をしていき世間からも認められ、経済的なことも含めて非常に余裕のある暮らしをしている。

さあ、そういった人は現在でもたくさん存在するのですが、その人たちが幸せかというとそうではありません。

本当に幸せな人は周りを幸せにしていきます

今の社会はどうでしょう?

もしあなたが「いや、私は違う」というなら、それは例によって幸せの意味を誤って解釈しているか、自分自身をきちんと見ていないのです。

ということはね、勉強ができるということは全く世間のため社会のためにならないというか、関係ないということです。

まずね、この現状をしっかり認識する必要がありますよ。

あなたがどんな反論をしようとも、明治以降日本人が築き上げてきた社会の現状がすべてを物語っているのです。

読み書きソロバン

読み書きソロバンといいますが、確かにそれ位は強制してもいいかなとは思います。

ただね、元々人間はテレパシーでコミュニケーションしていたのです。

今でも進んだ文明の惑星ではそうなのです。

言葉というのは非常に便利なように思いますが逆に制約も多くて、例えばあなたは目の前のオーロラをそれを見ていない人にどのように伝えますか?

これテレパシーだと目で見ているイメージをそのまま相手の脳に送るので一発です。

数字というのも今のような経済では役立つでしょうが、自分がもらうものと相手に与えるものの価値を計ろうとするから算数が必要なのであって、相手が必要なだけ与えることが自分の歓びだという世界では無用の長物です。

 

他の自然科学もそうなのですが、元来起こっている現象に興味を持ってどうしてそうなるのだろうと考えた時に、初めて調べてみたいとなるわけですね。

まずは観察ありきなのです。

それを今は〇〇の法則とか公式とかを覚えるところから入っていきます。

そんなもの面白いはずがないでしょう。

 

医学部でも歯学部でもそうなのですが、教養課程が終わればまず基礎医学から入ります。

解剖学とか生化学とか細菌学とかですね。

普通は、そんなの当然でしょと思いますよね。

でももし、これを臨床の現場を様々な角度から見学するというところから入るとどうでしょう?

まず手術や医師が診断、治療をしているところ、看護の実地を観察するのです。

すると本来その道に進むべき人は当然興味を抱くでしょう。

ここで興味を抱かないのであれば医学部に入学したこと自体が間違っていたのです。

興味を抱くとその根底をなしている基礎医学を勉強したいと思うのは当然の成り行きです。

 

つまり今の教育システムはすべて順序が逆転しているのです。

現象を観察して興味を抱くから学習する、というのが本来で、その時に知りたいことを学べる手助けをするのが教育です。

一方的に知識を詰め込むのは教育ではありません。

私は大学院を出ているので歯学博士なのですが、歯科の専門的な知識は別としてそれ以外の小中高大と勉強してきたことは一切役に立っていませんし、必要もありませんでした。

唯一英語だけはまあ役に立ってるともいえますが。

だって、因数分解とか行列とかそれが専門の人はともかく、社会人になってどこで出てきます?

いらないでしょう、そんなもの。

 

数学というのはこの宇宙のある一面のすごく面白いところを表しています。

であるならば、子供に提示する時に今とは違ったやり方があるはずなのです。

世界中で戦争がなくならないのも差別がなくならないのも歴史を教えるからです。

もしね、歴史を全く教えなければ今の日本と中国や韓国のような関係は起こり得ないのです。

不幸にして争いがあった大人たちはその記憶を封印して、次の世代の子供たちには新たな関係を築くように努力すべきでしょう。

 

差別のことを子供に教えなければ子供たちは人を差別するということを知り得ません。

それが何かということが全く分からないのです。

大人が教えるから人を差別して自分が優位に立つなんてことをするようになるのです。

じゃあ勉強って何のためにあるのでしょう?

はっきり言います。

今の勉強は大学や会社が学生を選抜するための道具でしかありません。

そのために小学校の時から面白くもないことを強制されているのです。

小学校なんてその上に美味しくもない給食をこれまた強制的に食べさせられるんですから、そりゃ学校に行きたくもなくなるというものです。

通知簿を見てごらんなさい。

評価の項目に”興味を持って学習している”なんてのがあったりします。

“その子が何に興味を持っているか?”ということには全然興味がもたれません。

そんなアホな!!

 

え?

勉強もしない奴が医者になんかなってもらったら困るって?

いえ、そういうふうにはなりません。

ただ医学部の入学の時点でくだらない選抜などしないというだけの話です。

まず何をやりたいか、何になりたいかという希望が優先されます。

そして医学部であればまず医療の現場を見学し興味を抱けばそこから先へ進みます。

あんなふうになりたいと思うのであれば、それに必要なことは興味を持って学習されるでしょう。

最終的に国家試験で未だ免許を与えるに至らずと判断されれば、再度挑戦するか別の道を選ぶかすればよいのです。

ん?

そんなシステムだと社会の底辺を支えるような仕事につく人間がいなくなるじゃないかって?

う~ん、何をもって社会の底辺と言ってるのかわかりませんが、例えば私が生まれ育った大阪市東成区というところは小さな工場がたくさんあるところです。

私は幼い頃から休みの日でも関係なくネジ工場や鉄筋の工場で働く男の人を見て育ちました。

でも私はそこで働く人たちが医者や歯医者に劣るなんてこれっぽっちも思いません、思う人は思うでしょうけど・・・。

まあ、そうやって生まれた医者の方が今よりよっぽどマシだと思うのですね。

私の医者の定義

私、時々辛辣なことを書きますが私の医者の定義は次のようなものです。

”非常に記憶力に優れている人。そしてある枠組みの中では優れた理解力を示すが、その枠組みからはずれるとその理解力は全く用をなさない”

私の兄は股関節の領域ではそれと知られた整形外科医です。

また大学のサークルの先輩にも優秀なお医者さんが何人もいらっしゃいます。

それでも上の定義は変わりません。

というより、これ以上医者の実態を正確に表している言葉はないだろうとさえ思うのです。

 

そろそろ核心です。

勉強なんてまったく必要ありません。

でも何かになりたい、何かの資格を取りたいと思えば当然新しい知識や技術を覚えなければなりません。

大切なことは自分がやりたいこと、楽しいことのためにそれを身につけるのだということです。

学び、習う、これこそが人が一生絶対にやり続けることなのですよ。

この文章と「12歳の決断」のところを印刷して校長先生に見せてごらんなさい、

きっと狂ったように反論してくるから(笑)

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先生、給食残しちゃダメですか?

僕が小学生だった頃、まだクジラの角煮が給食のおかずとしてでていた頃、僕は別に給食が嫌いではありませんでしたし、そもそも好き嫌いというのがなかったのですが、食パンやコッペパン、レーズンパンはよく残したものです。

だってね、あんな食パン生で食べろという方が無茶でしょう。

よく食べ残しのパンが学校の机の中とかランドセルの底の方でカビが生えてカピカピになっていたものです。

まだその頃給食で出されていたパンはカビるだけマシだったと思うのですが。

ある大手メーカーのパン

こんな話知っていますか?

本当か嘘かは知りませんよ。

ある大手パンメーカーの会長は決して自社製のパンは食べない、なぜならそれが体に良くないことを知っているから。

だからそれを毎日食べている工場長には特別手当が出ている。

まるで原発で働く人ですね、こりゃ。

(原発で作業する人の給料聞いてごらんなさい、一般人はビックリしまっせ)

あそこのパンはただでさえ異様にフワフワなのに、まだもっと柔らかい新製品を出すって、いったい今度は何を入れたの? と聞きたくなります。

 

牛乳は何度も繰り返しますが、あんなもの飲んだら下痢するだけです、牛の血なんだから。

パンに使われている小麦粉はいわずもがな遺伝子組み換えです。

おまけにいろんな添加物のおかげでカビも生えません。

カビが生えないということは農薬づけの野菜と一緒で虫も食わないってぇやつです。

そんなものを毎日子供に食べさせてるんですよ。

すべて今の間違った学校給食法のおかげです。

戦後の日本人の食生活

戦後、アメリカがどうしても日本人の食生活を変えさせたくって、いろんなものを持ちこみました。

そのうちの大きなものが砂糖と小麦文化です。

このおかげで日本人の体はガタガタ、みごとにアメリカの日本人骨抜き化計画は適中したわけです。

自治体によれば工夫して給食に郷土料理を出したり、米飯を中心にしているところもありますが、まだまだ全体から見ればごく少数でしょう。

子供たちの健康を守るために、これは本当に早急にどうにかしなければいけない問題です。

でも現状は、母親が学校に自分の子供は牛乳を飲まないことを認めてくれと言ったとしても、医師の診断書がなければ却下されます。

学校はとにかく学校給食法があるからそれを遵守しなければならないとの一点張りです。

ただ、それを押しつけてアレルギーやショック症状が出たら学校側が責任を問われるので、診断書があればOKということです。

これはあくまでも保身のためであり、子供のことを考えてではありません。

世の中捨てたものじゃなくって、そういう人のためにきちんと診断書を書いて下さるお医者さんもいらっしゃるので、リンクページを参考にしてください。

知り合いに親しいお医者さんがいれば偽の診断書を書いてもらえばいいのです。

かまいません、子供の健康を守るためです、何だってアリじゃないですか?

学校給食より家庭の食事

でもね、一番大切なことは家庭での食生活がきちんとしていることなのです。

安いからとスーパーの特売品を買ったり、時間がないからと冷凍食品ばかり食卓に並べているのでは、学校に文句を言う資格すらありません。

一度、真面目なものづくりをしている農家を訪ねてみられたらいいですよ。

まともな食べ物はそんな安い値段で店頭に並べられるわけがないのです。

大手食品メーカーが金儲けのために作っている、遺伝子組み換え作物と添加物だけでできたようなものばかりを買い与えるのなら、そりゃもうまともな子育てを放棄していると言ってもいいでしょう。

あなた自身が食べていても赤ちゃんに影響するのです。

あなたの摂った砂糖や添加物、遺伝子操作された動植物は将来お子さんの免疫力を弱めたり、脳神経系に悪影響を与えるので、そのしっぺ返しが必ず来ます。

というか、来ているんだけれど子供が多動だったり、アトピーだったりする原因がそんなところにあるとあなたが知らないだけの話です。

 

日本人は変なところがあって、みんな長生きしたいと思っているし健康でありたいと願っていて、テレビで健康に良いといわれるものはお金をかけて何でも試してみるくせに、健康を害している大元の原因を除こうとはしないのですよ。

それでもあなたが、有機野菜は高くてとても買えない、共働きで食生活をきちんとする時間なんてとれない、子供が言うことを聞かない時はどうしてもお菓子を買ってしまう、とおっしゃるならどうぞ今の生活を続けてください。

大人はね、もう成長しきっていますから、あまり関係ないと言えば関係ないんです。

せいぜい、かなりの高確率で癌になるということくらいでしょう。

本当に深刻な影響はあなたのお子さんやお孫さんにしかでないんですから、あなたは安全なわけです。

どうぞ、そのまま。

いつだって社会の犠牲になるのは罪のない子供たちと相場は決まっているのです。

 

さあ、そろそろ大声で叫びましょうかねぇ。

いざ!!目覚めよ、大人たち!!!

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ひきこもりの心~この世に不必要な人間なんていない~

かつてこんなことがありました。

今の場所へ引越しする前のことです。

子供たちが学校から帰ってくると、すごい勢いで文句を言ってきます。

「お母さん、もう〇〇ちゃんのお母さんイヤや!うちらのこと無視すんねんで!」

子供たちが通う学校では小さなグループで登校の時は集団登校するのですが、下校時はグループごとに親が交代で付き添いをすることになっていました。

うちの子供たちの言うところによると、その日の付き添い当番だったA子ちゃんのお母さんが自分の子供ばかりかまって他の子たち、特にうちの娘たちには非常に冷たく、まるで無視するように接するので、すごく腹が立つということでした。

その時僕は一通り話を聞いた後、そのお母さんは本当はすごく寂しい人だから実は可哀想なのはその人自身なんだ、だからそのお母さんとA子ちゃんのために祈ってあげなさい、と言いました。

正直言ってその頃の子供たちには難しすぎる話だし、後から妻に聞くところによると「何でそんなことせなあかんのん!?」とブーブー言ってたそうです。

子供の問題は親の問題

確かにそりゃそうですよね。

それでも僕はそう言ったので良かったと思っています。(こちらの詩をご覧ください)

僕はその頃公団に住んでいましたが、その周辺は奈良では高級住宅地と言われているところです。

駅前には塾が乱立し、終電近くなっても塾帰りの小学生を見かけるし、公団の周りでは迎えに来た親が路上駐車をして子供を待っていました。

そして僕の知る限り、このA子ちゃんのお母さんのような人は少なくないのです。

その街は見た目とは裏腹に非常に病んだ街だという印象でした。

 

いつも申しますように、子供の問題というのは起こっていることは確かに子供の問題なのだけれど、その原因は親でしかあり得ません。

いくら言ってもこれがわかってもらえません。

子供はその問題を提示することによって、親が本質的にもっている捉われを教えてくれているのです。

これが唯一絶対の真実です。

こういうと、「わたしの育て方が悪かったのかしら」となるのですが、違うんです。

ただ単に親が原因だと言っているだけで、良い悪いを言っているのではありません。

ですから、子供さんが問題を抱えてそれを通して親が自分自身を見つめる、このことが必要だから起こっている話でして、それで完璧なのですよ。

最初から問題のない子育てをすることが良いわけではないのです。

それらの体験を通して家族が成長していく、人生の真実に目覚めていく、その過程が非常に大切なのだということです。

そして本当のあなたの姿と、今現実のあなたの姿とをうまくつなぎとめる、そのカスガイの役目を果たしにあなたのお子さんはやって来たのですよ。

引きこもりの理由

引きこもりになったのには、そうなった理由があります。

しかし自分の子供が引きこもりになった時に、どうすればそれを解決できるか、どうすれば社会復帰できるか、そればかりが話題になります。

どの親も、学校も、会社も、もひとつおまけに児童心理学などを学んだ評論家たちも、それが本当は自分の内面の問題なのだと考えません。

これではいつまでたっても、根本的な解決は得られないでしょう。

引きこもりの人は確かに社会的には全く生産性がありませんし、そういう意味において役に立っていないと言えばそうでしょう。

しかし、その人が引きこもりであることにより、そのことを気にかけて何とかしようという人たちがいるのも事実です。

親にしてみれば自分の子供が引きこもりだという、世間に対して恥ずかしいような、また親としての責任を感じるような独特の感情を味わうわけです。

当の本人にしたって、何とかしようと思うんだけれど出来ないジレンマと焦燥感、あるいは「もうどうだっていいや」みたいな諦めの感覚など、引きこもりになることによって様々な感情を体験します。

つまりね、これだってりっぱな家族のひとつの体験なのですよ。

その子はその体験の核になっているに過ぎません。

というよりその子が引きこもりであるがゆえに、家族や周りの社会がそこに引きこもりの子がいるという体験をすることが可能になるのです。

 

こう考えると、引きこもりは悪いことでしょうか?

恥ずかしいことでしょうか?

その子は社会に必要がないのでしょうか?

どう思われます?

 

でも、40歳にも50歳にもなって仕事もせずに家でゲームばかりしているのは心配なのはよくわかります。

「何とかしなければ」という気持ちもわかりますし、第一経済的にいつまでも養ってられないという現実もあるでしょう。

それでもあえて申し上げます。

そこにとどまって下さい。

戦ったらダメです。

逃げてもいけません。

その引きこもりという体験を家族全員でとことん味わいつくしてください。

いいじゃないですか、それだけで今回の人生が終わってしまっても。

あなたはいつだって再生できるんだから・・・。

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パパ、ママ、お願い気づいて!!(幼児虐待の話)

「こどもの心」もそろそろ最後のメッセージに近づいてきたかもしれません。

大切な真実はひとつ、子供は親を映す鏡であるということです。

今、幼児虐待による死亡事件が後を絶ちません。

先日のある事件では僕の同級生が裁判員に選ばれました。

しかし世間では、どうすれば虐待を防げるかという問題に対して、まず医療機関や学校がいち早くその兆候に気付くことが重視されています。

あるいは、育児のことで相談相手を持たない母親が気軽に悩みを打ち明けられるように、そのような窓口を設けたりもされているようです。

それぞれ確かに大事なことではあると思いますが、そもそもなぜ親が自分の子供を虐待するようになるのかが論じられることが少なすぎる気がします。

過去世に起因

一般に殺人事件の場合、過去世に起因することが多いです。

過去世での加害者、被害者の役割を入れ替えて今生で体験しなおす、あるいは自分のしたことの結果がいくつかの生を超えて自分の元にやってくるとも言えます。

では幼児虐待の場合はというと、もう少し因果関係が早くて今生において親から虐待されていた人が結婚して子供が出来ると、自分の子供に対しても虐待をしてしまうというのが圧倒的多数だと思われます。

自分が子供の時に親から虐待を受けていた場合、その子が親になった時に取る態度は次の二つのうちのどちらかです。

ひとつは自分も子供に対して虐待をする、もうひとつは自分は親として自分の子供を傷つけないように非常に優しく接する、その中間というのはほとんどありません。

いわゆる戦うか、逃げるか、みたいなものです。

虐待とは

さて、虐待とは決して暴力だけではありません。

火のついたタバコを押しつけるようなことだけではないのです。

やっとお父さんとお母さんに会えると思ってやって来た子供を無視するのも立派な虐待です。

自由に羽ばたきたいと思っている子供を親の考える枠に無理やりはめ込もうとするのも虐待になり得ます。

あるいは実際に態度に出なくても、頭の中で子供のことがうっとうしいと考えるだけでもそうなる可能性はあるのです。

つまり、子供が親に愛されてないのじゃないか、と考えてしまうようなことはすべて、それが大人にとってどんなつまらないことでも、純粋な子供の心には大きな傷を与えてしまうということです。

 

人が生まれてきて最初に愛されるという体験をするのは親以外にありません。

そしてその体験が欠落していると、自分は愛されない存在だと心のどこかで思ってしまいます。

そして、いざ自分に子供が出来てみると、子供はそれこそ命がけで親が愛を知らないということを見せてくれます。

それは、親になつかないという態度を通して行われるかもしれません。

あるいは子供が同級生をいじめるという行為を通してかもしれません。

また万引きだって、ゲームセンター通いだってそうかもしれません。

引きこもりもそうでしょう。

その親にとって最適な形で子供が愛を知らない鏡になるということがなされるわけです。

そして、それと同時に子供はそれらの行為を通して何とかこの世界における自分の存在を確認しようとしているのです。

 

その結果は最悪の場合、虐待死まであるわけですから文字通り命がけなのです。

子供は生まれる前、天国にいる時にそこまでの可能性があることを十分承知しています。

それでありながら、その子は「お父さん、お母さん、愛してるよ!」と伝えるために生まれてくるのです。

その伝達は非常にシビアなので、通常こういうことを教わらない限り親は気づかないでしょう。

 

虐待を行った親は裁かれ、罰を受けます。

死刑だってあり得ます。

これは今の法律では仕方のないことかもしれません。

しかし皆さん、本当に気の毒なのは死んだ子供だけでしょうか?

彼らは自分の命と引き換えに、親を助けようとしました。

親はその時には気づかず残念な結果を招いてしまいました。

しかし、たとえ死刑になったとしても死ぬその瞬間には親は気づきます。

すべてのことを理解します。

確かに生きている間に気づくことはできなかったかもしれないけれど、子供の命がけの行為は決して無駄になることはありません。

必ず、向こうの世界で泣きながら抱き合うことでしょう。

でもね、少し考えて欲しいのです。

人を殴った時に、殴られた方の頬は確かに傷つき痛みますが、殴った方の拳もそれと同じかあるいはそれ以上に痛みます。

そして殴られた方より殴った方の痛みの方が消えるのに時間がかかるのです。

 

幼児虐待を考える時に、以上のようなことを頭に入れてよくよく熟慮すると、親を加害者として裁くということだけでは何も解決しないのはもうお解りでしょう。

親だってかつては被害者であったのです。

それでは次の虐待を防ぐことは絶対にできません。

すべての原因は、わたしたちが愛を知らないことにあるのです。

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生まれてきてくれてありがとう~わたしを目覚めさせたもの~

このメッセージは今まで大切にしまってあったものです。

僕の最終兵器といってもいいでしょう。

「こどもの心」では色々と偉そうなことを書いていますが、「じゃあいったいお前のところの子育てはどうなんだ?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

それについてここではご説明します。

わたしを目覚めさせたもの

おそらく自営業という名のつくものを営んでいる人は多かれ少なかれそうじゃないかと思うのですが、結婚して最初に生まれてくる子供は男の子であって欲しいと心のどこかで考えています。

僕の場合、別に歯科医院を継いでくれとは思わないですが、それに大学院時代に嫌というほど動物実験をしましたので、とにかく無事で生まれてくれればそれでいい、とはいうものの、言われてみれば確かに心のどこかに男の子であってくれという願いはあったと思うのです。

そして案の定というか、最初に生まれてきたのは女の子でした。

生まれてみれば我が子ですから確かに可愛いわけです。

でも彼女はとにかくよく泣きました。

外食しても、どこかに泊まりに行ってもとにかくよく泣いたのです。

よく泣く理由

なぜ泣いたのか、理由は二つあります。

ひとつは、彼女を妊娠していた時、つまり結婚して間もない頃や彼女が生まれてからも、とにかく僕はよく妻を叱っていました。

今思えば男らしさを勘違いしていたのですが、すぐ手をあげるし人間性を否定するようなことまで言っていたと思います。

そして妻はとにかく僕に怒られないように、ビクビクしていました。

妻は広島出身ですから、いきなり大阪に嫁いできて周りに知人が誰もいない中での夫のそういった態度はいくら好きで結婚したといっても、さぞつらかったでしょう。

このような場合、子供は両親が別れるのではないか、自分の前からいなくなるのではないかと不安になり夜泣きをしたりしやすくなります。

長い間待って、ようやく会えたのに・・・。

 

よく泣く理由のふたつ目は、僕がとにかく行儀にうるさかったからです。

外で食事をしたりする時に、周りの人に迷惑をかけてはいけない、という観念が強かったのでとにかく良い子でいるようにさせることが最重要課題でした。

そして行儀のよい子の父親であることで、「やっぱり西塔さんところの子供は違うわ。躾がいきとどいてますね」と世間に認めてもらいたかったのです。

今考えれば、僕が行儀や躾にこだわったのには、僕の母親の影響が強かった気がします。

自分の分身が、愛せない父親

長女は名前をといいます。

僕たち夫婦が新婚旅行で泊まった信州の蓼科にある旅館の名前からいただきました。

藍が成長するにつれ可愛いさよりは、親の言うとおり出来ずに泣いてしまう彼女のことが段々嫌いになっていきました。

そして彼女が時折見せる人としての弱点のようなもの、意気地無しなところだったり、つい人の顔色を窺ったりするところなどが、自分が持っている自分の大嫌いなところそっくりで、腹が立つのです。

いつの間にか自分で自分の子供が、そして裏を返せば自分の分身が、愛せない父親になっていました。

次女誕生

そのうち次女のふうが生まれました。

またしても女の子だったわけですが、一風変わったその平仮名の名前は、漫画の「美味しんぼ」に出てくる喫茶店の名前からきています。

この子は生まれた時からとにかく頑固でした。怒られてもひるみませんでした。

怒られても目線をそらさず、僕の目をじっと見ながらまるで僕が親のエゴで怒っているのを見透かすようにするのです。

実はこの子が妻のお腹にいる時に僕はある事から人生で最大のピンチを迎えていました。

いまだにあの頃流行っていたモーニング娘の「ラブマシーン」を聞くと当時の独特の気分がよみがえってきます。

自分が何者か?存在する価値があるのか等、自分の根底がブレまくっていた時でした。

それで次女が生まれて来た日が平成11年11月1日です。

親が自分の位置(1)は何かを問われているんですよ、これ。

長男誕生

次に生まれたのは男の子でした。

妻は広島の病院で出産するので、男の子誕生の報を受けた僕はその夜一人で祝杯をあげに、奈良の行きつけの寿司屋さんにおじゃましました。

カウンターに座ってしばらくすると大将が「ハイ、お祝いっ!」と言って焼酎をおごってくれたのですが、そのグラスを受け取った瞬間、ずっと抑えていたものが抑えきれなくなって涙が次から次へとあふれてきました。

やはり僕は男の子が生まれるのを心のどこかで楽しみにしていたのです。

 

さて長男が生まれても僕の子供たちに接する態度は変わりません。

何事につけ口やかましく叱っていました。

そんなふうですから、子供たちは何かちょっと脱線したことを言ったり、したりした時に必ず僕の視線を気にするようになりました。

僕がそのことで烈火のごとく怒りだせば、首根っこをつかまれて押入れやトイレに閉じ込められるからです。

泣いてる我が子を引きずっていても、その頃はそれが躾だと思っていました。

 

僕は父と母が年取ってからの子供です。

母は後妻で西塔家に入りましたので、僕は兄や姉とも年齢がすごく離れていました。

小さい頃、友達やいとこ達と遊ぶことはありましたが、親兄弟に遊んでもらった記憶はほとんどありません。

まったく無いわけではないのですが、すごく少なかったと思います。

ですから、いざ自分に子供が出来ても僕は子供たちと遊ぶのが楽しくありませんでした。

正直言ってダルイのです。

だから休みの日などは僕は僕自身のことに時間を使っていました。

 

最後に生まれた長男のことは「子供の体質を決めるもの」の項でも書いています。

父親との接する時間が短かった僕は、自分も自分の息子に対してうまく父親として接することができませんでした。

そして息子はそんな僕にあまりなつかず妻にベッタリ甘えています。

長女は何かと言えばお父さんと一緒に〇〇すると言いますが、そんな長女が僕はその頃うっとうしかったのです。

最もひどかったのは、京都の公園で遊んでいた時に次女が見当たらなくなったので、長女に「お父さんとお母さんが探してくるから、お前はここを絶対に動かないように 」と言いつけて探した結果、次女は見つかったものの今度は長女がその場所を動いていてまた探すハメになったのです。

しばらく探していると、ある女性が泣いている長女を連れて来て下さいました。

その後僕は、言いつけを守らなかったことにブチ切れて「もう帰ろう」と車に乗り込み、後部座席にいる長女にボロクソに言ったのです。

「お前みたいなやつは、いまだかつて西塔家にはおらんかった!そんなやつはウチの子やない!」

・・・僕、このことだけはいつか娘に土下座して謝ろうと思ってるんですけど、ひどいですよね。

だって、彼女の生い立ちを考えてみてください。

自分は一人ぼっちになるんじゃないかと不安になって、言われたことなんてどこかに飛んでいきますよ、そりゃ。

長女は帰りの車の中で魂が抜けたように茫然とした顔をしていました。

泣くどころの話じゃなかったのです。

 

ここまで読まれていかがですか?

このホームページや著書を読まれて、もしかして僕のことを素晴らしい人だとか、悟ってるとか勘違いなさっている方がおられるかもしれません。

メッセージ自体はまぎれもない、そして一分の揺るぎもない本物です。

でも僕はあくまでもメッセンジャーであって、ただ単に皆さんに伝える役目を果たしているだけです。

その頃の実態は上に書いたとおりです。

ヒドイもんでしょ。

さあ、ここから話は佳境に入ってまいります。

長い話ですがもう少しお付き合いください。

成18年の2月2日

そんなすべてが手探りだった家庭の中で今から4年前の平成18年の2月2日に僕は44歳の誕生日を迎えました。

そしてその誕生日を迎えてからというもの、今まで感じたことがないような違和感をおぼえました。

2月2日で44歳というゾロ目が何か変な感じがしたのです。

アホな僕は「2とか4で数字が揃たら、少し前のパチンコなら持ち玉交換やな」とか思ってたんですが・・・。

そして月は明けて3月になり長女が8歳、次女が6歳、長男が4歳のある日のことです。

子供たちが三人並んで小冊子のようなものを渡してくれたのです。

まったく何の脈絡もありませんでした。

前後に何かイベントがあったわけではないのです。(画像をクリックすれば拡大されます)

 

めざめ  めざめ2

 

めざめ3   めざめ4.jpg

 

めざめ5.jpg めざめ6

 

これはショックでした。

頭を丸太で殴られたような感覚でした。

だって、読まれた通り僕は全然子供たちにやさしくありません。

それどころか、暴力とまではいきませんが、言うことを聞かない時には頭を叩いたり、押仕入れに閉じ込めたりしていたのです。

また言葉の上では暴力を振るっていたでしょう。

でも、でも僕の子供たちはこんな僕たち夫婦に「パパ、ママ、やさしい」「大好きだよ」と言ってくれたのです。

僕の妻だって、言うこと聞かない子供たちにキーキー怒ってたんですね。

「パパ、ママ、やさしい」「大好きだよ」

この言葉がすべてでした。

今、僕がこうしてあるのは本当に子供たちのおかげなのです。

ディクシャで目覚めたんじゃありません。

何かの本で気づいたのでもありません。

誰かの講演が本当の自分に立ち帰らせてくれたわけでもないのです。

すべて、愛を知らない鏡を演じてくれた子供たちのおかげです。

このことがあってから、いろんなことが変わっていきました。

様々な出会いやシンクロニシティがありました。

そして、今があります。

僕が「こどもの心」で偉そうに書いているのは、すべてこういったことが背景としてあるからです。

 

この小冊子は僕たち夫婦の宝物です。

もし自宅が火事になったら、真っ先にこの小冊子を持ちだすでしょう。

なぜなら、これは僕たちだけではなく、すべての親たちへのメッセージだと思うからです。

もうこれ以上誰の子供も傷ついて欲しくありません。

同じ過ちは人類全体として、しないようにできるはずでしょう。

自分の子供も、よその子供も関係ないじゃないですか。

みんな大切な未来を担う子供たちです。

この話の続き、「西塔家のその後」は近々、院長ブログ「カッパのサンポ」で公開予定。

 

わたしの子供たちへ

 

わたしの子供たちよ

こんなお父さんとお母さんの元に生まれてきてくれて 本当にありがとう

僕たち こんなに未熟なのに 選んでくれてありがとう

あなたたちが教えてくれた愛を いや、皆本当は愛を知っているんだということを

お父さんは自分なりに伝えていきたいと思います

お母さんはまた、違うやり方をするでしょう

あなたたちが携えてきたメッセージを 僕たちは確かに受け取りました

これからはお互いに本来の道で頑張りましょう

あなたたちは子供はもっと自由でいいということを 教えてあげてください

大人の強制から子供たちを解放してあげてください

僕たちは大人たち自身が捉われているものから 自らを解放できるように努力します

ありがとう   本当にありがとう

あなたたちが 親から真の愛情を注いでもらうべき時に

僕たちが未熟なために それができなかったことを 心から申し訳なく思います

だからこそ 次の世代には そうじゃない世界を作れるように

お互いに頑張りましょう

あなたたちは 僕たち夫婦の心からの誇りです

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Crystal Kei ~新しい親子関係 子供たちの未来のために~

この記事を書いている時点で、うちの長男の慧は小学4年生で来月5年になります。

普通、この年くらいになると胎内記憶とか誕生前記憶は忘れてしまうものですが、彼はいまだに話すことがあります。

先日、嫁と言い合いになったそうで、慧が「お母さんが慧を生むからや!」と言ったのに対し嫁は「あんたがお母さんのお腹に入るけえよ(広島弁)」と返したそうな。

すると慧は次のように答えたのです。

「慧がな、生まれる前に空の上から見てて、お母さんの夢の中に出て、お母さんの子供に生まれてええかどうか聞いた時に、お母さんがええよって言うたからお腹に入ってんで。

その時に1月18日に生まれるからって言うたら、お母さんが『楽しみに待ってるわ』て言うてん」

その後、彼は天国にあるたくさんのすべり台の中から妻のお腹に通じているのに乗ってきたんだそうです。

 

僕が休診日に嫁とカフェでモーニングを食べていた時、ふと慧のその言葉を思い出しました。

そして読みかけていた「第十一の予言」の続きを読みだすと、すぐに次のような文章に出くわしました。

 

~~~受胎する前に子供の魂が両親と出会っていることは、ここ(シャンバラ)では誰でも知っています。

子供の魂は自分の存在を、特に母親に知らせるのです。

これは、未来の親が本当に適切であるかどうか決めるプロセスの一部なのです~~~

 

血脈というのがあります。

これは親が成そうとして成し得なかったことを、子供があとを継いでいく意味合いがあります。

もちろんここでは霊的な話をしています。

そして子供は自分の成すべきことのために、必要にして十分な環境、特に両親を選んで生まれてきます。

生まれてしまうと、そうした霊的な目的の事は忘れてしまいがちなので、結局子供たちにも成し得ないことがでてきて、それをまたその子供たちが受け継いでいくわけです。

 

では、もし途中で両親が自分のバースビジョンに気づいたとしたらどうでしょう?

子供たちは両親の鏡を演じますが、その必要は無くなります。

そして親がそのことに気づいたわけですから、当然子供たちはその旨を思い出すように教えられるでしょう。

親が成し得なかったことを受け継いでいくのであれば、親が気づいて自分のバースビジョンを生きだすと、子供たちはより高いレベルからスタートを切ることが出来るわけです。

よろしいですか?

これは非常に大切なことですよ。

子供が幾つであっても関係ありません。

親が気づいたその瞬間から子供のベースラインは引き上げられるのです。

 

これを更に発展させてみましょう。

シャンバラ(シャングリラ)では実際に行われていることのようです。

親が自分のスピリチュアルジャーニー(自分の人生における霊的な旅)について正直に語っているのをDVD等の媒体に記録して残しておくのです。

それが何代にもわたって保存されているところを想像してみてください。

ある世代の子供たちは、自分の先祖が成そうとして成し得なかったこと、その途中でどのような捉われがあり、どのように進化してきたのかを順番に見聞きすることが出来るのです。

これは考えてみればものすごく凄いことです。

僕はいずれこのような記録を残し、子供たちに僕たち夫婦や僕の知る限りの両親・親類の霊的冒険について話して聞かせようと考えています。

 

こう考えてくると、子供を授かるというのは地上と天国との双方向の希望や願いを結ぶものだと言えます。

生まれる前の子供の魂は、唯一無二の存在として特定の両親を選びます。

ところが、現在のところ親の側はただ何となく子供を欲しているにとどまっています。

男の子が欲しいとか、女の子が欲しいとか、そんなレベルです。

男女がSEXをするということは、地上と天国をつなぐ荘厳な行為でありますが、それ故に我々はその行為に関して慎重でなければなりません。

つまり、子作りをするとは単に自分のDNAを残していくということではなく、自分たちの血脈の中での霊的な進化のためだということを強く認識する必要があります。

それは子供を授かる親にとっても、また生まれてくる子供にとっても、です。

 

これらはね、本当にシャングリラ(シャンバラ)からの伝言なのですよ。

かなり高度な智慧ですが、でももう我々の次元でそれを具現化していく時期が来ているようです。

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