スピリチュアルな世界
ワンネスとは?
ONENESSとはONEの名詞形つまり「ひとつであること」です。
この宇宙はビッグバンによりできたのなら、それ以前は今あるすべてのものが一点に凝縮していたわけです。
だから、あなたとわたしも、人と動物も、動物と植物も、植物と鉱物も、すべて元々はひとつのもので、現在は単にさも違う存在のように錯覚しているだけだということです。
すべては“ひとつ”なのですが、わたしがわたしであることを認識するためには、わたし以外のものが必要です。
わたしも白、あなたも白だったら、わたしは自分が白であることがわからないということですね。ですから、すべての面において自分とは違う個性が周りを埋め尽くしているわけです。
ところが、人は自分が他のものと違うと何かがおかしいと感じてしまうようになりました。
他人と同じでなければならないと無理に合わせようとしたり、他人と違う自分でなければならないと考え、何とか自分を主張しようとします。
その中で自分を守るために往々にして自分以外のものを否定しがちです。
その結果、自分自身に心理的葛藤が生じたり、人間関係において問題を起こし悩み苦しむのです。
すべてこの世界の本質、つまりワンネスからかけ離れているために起こるのですね。
もう少し正確に説明すると、〇〇NESS というのは〇〇である状態のことを意味します。
つまりONENESSとは「すべてがひとつであると完全に理解している人の心の状態のこと」と言えます。
これは2010年10月30日に神戸で開かれたワンネスフェスティバルの案内のパンフレットからの抜粋になりますが、およそ次のようなことです。
ONENESSとは人がそのまま、ありのままの状態でいて幸せであることをいいます
それは自由・解放・豊かさに溢れ、葛藤も偽りも抵抗も無理や我慢すらありません
個人がONENESSを体験することにより社会や世界が真のつながりへと向かっていきます
どうすればワンネスになれるのか?実感できるのか?
それについてはこちらの記事をどうぞ
Discover Oneness ~人類史上初! ワンネスの発見~
なお、2014年現在は「ワンネスって何?」と聞かれたら「それは、個性の違うものが調和していること」と答えています。
究極のワンネスのお話
「人の本体」の所で述べましたように、宇宙の中の赤という要素があらゆる所から集まってきて凝縮したのがわたしでした。
同様に青という要素があなたであるとしましょう。
今あなたはわたしの目の前に立っています。
そして肉体部分を完全に無視して光の粒子だけに注目してください。
わたしとあなたの間には赤と青の光の粒子がグラデーションを作りながら混じり合っています。
ではいったい何処から何処までがわたしで、何処から何処までがあなたなのでしょう?
・・・境界なんか引けないのですよ。
また赤の粒子は宇宙の果てまで続いています。
ではわたしは何処で終るのでしょうか??
・・・何処まで行ってもわたしでないものなんて存在しないのです。
わたちたちが”これが自分”だと考えている肉体は、いったい何なのでしょう?
答えはね、本当は肉体なんて無いんです。
オーラの中心部分でホログラムのように幻影が映し出されているだけで、すべてのものの実態は光の粒子なのです。
ホログラムとはわかりやすく言うと、映画「スターウォーズepisodeⅣ(一番古い、最初に作られたやつです)」の中で、ロボットのR2D2がレイア姫のメッセージを映し出しますね、あれがそうです。
ただし、これはこの世界を七次元から見た場合の話で、三次元世界では肉体は確かに存在します。
だって幻想を現実と勘違いして生きるのが三次元世界ですから。
ところで皆さん、大丈夫ですか?ついてこれていますか?(笑)
これはご存知の方もいらっしゃると思いますが、オーラというのは体調、精神状態、意識の変化によって色が変わるのです。
瞬間的に赤から青に変わるというような極端な変化は稀かもしれませんが、それでも変化するのですね。
これはつまり自分に起こる出来事や人間関係からくる感情や意識の覚醒状態によって色が変わるということです。
でもね、考えてみてください。
宇宙の赤という要素がわたしを表しているはずでした。
その色が変わるというのは一体どういうことでしょう?
わたしだけではありません。
すべての人が瞬間瞬間に自分の本体であるはずのオーラの色調を変えているところを想像してみてください。
その状況でどの部分をわたしと定義することができるでしょうか?
準備はよろしいですか?
そろそろ核心に入っていきますよ。
これらのことを考えると、要するに自分というものは無い
・・・というより個人の肉体や意識などというものは無いという究極の現実にいきつくのです。
単に光の粒子が様々な模様に変化しながらそれを見て楽しんでいる、ある大いなるひとつの意識が存在するだけなのです。
その意識は一見客観的に色の変化を見ているようですが、実際はその変化はその意識というエネルギー体の中で起こっている、これこそが究極のワンネスの実態です。
神とは何か?
さあ、ついにこの話です。
皆さんは神を信じますか?
そもそも神とはいったい何でしょうか?
我々がピンチの時に奇跡を起こして助けて下さるのが神でしょうか?
じゃあ、アウシュビッツでの大虐殺や原爆投下、阪神淡路大震災はどうして起こったのでしょう?
神社の祠の向こう側にいるのが神でしょうか?
お寺の仏様とはどう違うのでしょうか?
皆さん今までにそんなことを誰か大人から明確に聞いたことがありますか?
もう一度聞きます、あなたは神を信じますか?
神とはいったい何でしょう?
最初に申し上げておきます。
皆さんにこの世界のことを教えてくれたご両親、祖父母、学校の先生、お寺のお坊さんや神社の神官さん、皆、ことごとく無知でした。
というより無知であると教えられてきたのです。
真理はあなた方の外側にあると教えられてきたのです。
〇〇がこうおっしゃった、〇〇にこのように書いてある等です。
これ大いなる間違いです。
真理はあなたの中にしか存在しません。
私はまずそのことを強調しておきます。
仮にあなたが「シャングリラからの伝言」に共鳴なさるならそれは、同じ真理があなたの中にあるから共鳴するのです。
なければ共鳴など絶対にしません。
もう少しつっこんでお話しますと、あなたの中の真理がずっと眠っていたのが目覚めようとする丁度そのタイミングに「シャングリラからの伝言」と出会ったのです。
この項では私はきれいなフィルターになりきります。
ですからここで書かれていることを私見だと思わないでください。
私を通して出されたあなた(神)からあなたへのメッセージだと思ってください。
ある視点から見れば神というのは別に神と呼ばなくても、それを示す言葉であれば何と呼んでもかまわないのです。
ところが日本では神と言いますが世界各国で呼び方は違うけれども神に相当する言葉がその土地なりに存在するのです。
これは言霊という観点からみれば非常に重要で、日本では神(カミ)である必要があるのですが、英語圏では言霊としてGODでなければならないのです。
他でも述べましたが日本語ではカミ=火・水=陰陽が溶け合っている状態なわけです。
この世界に最初に存在して、そして実は今も実態はそれしかないもの、それは意識です。その最初に存在した意識を難しい言葉でブラフマンと呼びます。
現在も本当の本当のところはブラフマンしか存在しません。
ところが自分自身を体験により知ろうとしたブラフマンは幻想の世界を巧妙に作ろうとしました。(今でも人をひっかけるような嘘のことをブラフって言うでしょ)
そして最初にできたのが幻想の世界担当大臣であるパラブラフマンと呼ばれるものであります。
実のところ今の宇宙はこのパラブラフマンが作り上げました。
パラブラフマンは次に自分の右腕であるところのものにこの宇宙すべてを統一する法則(OHM)を作らせました。
じゃあ左腕は?知らんがな、そんなもん(笑)。
その右腕たるもの(今のところ名前は知りません)は次に生命を司る担当大臣を決めていき・・・ということが延々続いていったのです。
すべて意識の中のエネルギーの動きの話です。
菩薩も如来もすべてこのようなカテゴリーの中に存在します。
もちろん、仏陀もキリストもマホメットもです。そしてその最終的想像(創造)の産物であるあなた(人間)も花や石もそうです。
さあ、どこからが神でどこからは神でないのでしょう?
もうお解りですよね。
すべてが神なんだけれど、じゃああなたは創造主かというと違います、ということですね。部分と全体という話であります。
この話を個から全体へと見ていきましょう。
さくっと定義しますがこの場合、神とは集合意識のことです。
空を飛んでいる雁の群れ、あるいは海で泳ぐ鰯の群れを思い浮かべてください。
複数いるのにまるで全体が一つの意識で統一されているような動きをしますよね。
あれが小さな単位の集合意識つまり雁や鰯の神というものです。
鳥や魚のひとつひとつをさすのでもなければそれらの集団のことをいうのでもありません、
そこに存在する集合意識のことを神と呼ぶのです。
これを押し広げていくと、鳥や魚の神というのも存在しますし、人間の神、哺乳類の神というのもあります。
このように考えていって宇宙に存在するもののすべての集合意識が大きな意味での神、先ほど述べたパラブラフマンやブラフマンであります。
100匹目のサル現象という話を御存知でしょうか?
ある島で一匹のサルが突然イモを洗って食べだした。
それをマネするサルが続出し100匹目になった時にその行為は群れ全体に広がっていき、さらに驚いたことにははるか離れた島でも誰に教わるともなくサルがイモを洗って食べだしたというものです。
これはある閾値を超えた時にそれは集合意識となり時空を超えて同じ種に影響を及ぼすことを示します。
確か聖書にも書いてあったと思うのですが、「汝三人集う時、わたしはそこにいるだろう」
今、三角形を三つ集めると(二つ並べた三角形の上に一つのっける)、真ん中に新たな逆向きの三角形ができかつ、全体として大きな三角形ができますよね。
3という数字は集合意識の最小単位なのです。
そして我々人間が神という場合、通常は多次元に存在する複数の神をさしていることが多いようです。
いかがですか?
お解りいただけましたでしょうか?
神がいるとかいないとか、信じるとか信じないとかいう話ではないということがお解りになりましたか?
さまざまな事由で人が亡くなることも、この宇宙全体という大きな視点から見れば完璧にして起こっています。
列車や飛行機事故で乗るはずだったものに、何らかの理由で乗れなくなって助かったというのも、その人がその事故で亡くなることは全体の調和からいって望ましくないと思われたからそのような一見天の助けのようなものが差し出されたのであり、事故で亡くなった人が見放されて、助かった人にだけ神の加護があったということでは決してありません。
すべては完璧なのです。
これらのことは、仏教大学や神学校で先生に習ったり、本を読んで勉強するといった類のものではないのです。
繰り返し言いますが、あなたの細胞のひとつひとつにすべての叡智が刻まれているのですよ。
だからこそ本当に悟った人は謙虚なのです。
思いだしたかどうかだけの差であることをよく知っているからなのですね。
私にはあなたの中の叡智が目覚めているのが見えます。
合掌(わたしの中の神があなたの中に神をみます)
わたしは何者か?~究極の命題~
これは精神世界においては究極の質問とされるもので、はるか昔から論じられてきたものです。答えはさまざまあって ・I am that. ・在りて在るもの ・わたしは意識である 等です。
そしてどれも正解というか、質問の的が広すぎて何を言っても間違いにはならないのですね。
でもね、ほとんどの人の言うことはわかりづらいです。
わかっている人にはわかりますが、そうじゃない人に「在りて在るもの」と言ってわかりますか?僕は次のように説明します。
まず、何も考えずに目を閉じてください。
そしてその一切何も考えない状態を続けられるだけ続けてください。
それを意識と呼ぶことにします。
意識とは何かとは考えないでください。
その何も考えない状態を意識と定義するのだと思ってください。
そしてこの意識こそがこの世界(宇宙)の実体です。
こう考えると「わたしは何者か?」の問いに対する答えは「わたしは意識である」が正しいと思われます。
ところが、話はここで終りません。
この世界(現象界)が始まる前からずっとそこにあったものは確かに意識なのですが、気の遠くなる位長い間(時間のない世界ですので、一見矛盾するのですが)何も考えずにただ存在だけした意識がある時、「わたしは何者か?」と自ら問うたのです。
やっとものを考えたのですね。その時のやりとりは本にも書いてあるのですが、以下の通りです。
「わたしは何者か?」 「わたしは愛である」
「愛とは何か?」 「愛とはすべてである」
「すべてとは何か?」 「すべてとはあらゆるものである」
「あらゆるものとは何か?」 「それをこれから見せよう」
という自らの内でのやり取りの後、ついにこの世界の創造を開始します。
ただしその創造は想像の中で行われました。
そして現在も行われている最中です。
要するにあなたが目を閉じた状態で物事を色々と空想するのと同じです。
結局、この世界(三次元世界に限らずあらゆる時空間にあるすべての世界)はあくまでも空想上の産物でしかありません。
それこそが般若心経曰くところの無と空です。
ちょっと一概には信じがたいですが、僕たちや僕たちを取り囲むこの世界はすべて本当に精巧にできた幻想なのですね。
というと、なんかどこかで見たような気がしませんか?
そうです。
映画「マトリックス」の世界なのですね、これは。
非常に精巧にできているため、幻想だとはわかりません。
わかったらそこでゲーム(創造)が終わっちゃうからです。
これも少しややこしい話なのですが、幻想だとわかってしまうというのは例えて言えば、腕を切り落とされた次の瞬間にもう腕が元通りに戻っている、というようなことです。
これだとすぐにネタばれするわけですから、最初の腕が切られた時の体験がつまらないわけです。
その時の恐怖感や、切られた後の喪失感が味わえません。
だから体験に真実味を帯びさせるために、原因に対する結果がきちんと与えられるということになっています。
つまり切られた腕は生えてこないということです。
でも幻想なんです。
これが絶妙なんですね。やりよるわい、意識。
人間が愚かなのは、幻想を幻想として認識せずに幻想に踊らされて生きている点にあります。幻想だったら何をしても良さそうなもんですが、自分がやった結果は必ず自分に返ってきます。ですから幻想を幻想として活用すればいいだけの話なんです。
みんな忘れちゃってるんですが、あなたが存在するのは自分が何ものかを知るためです。
そのために、すべてのものの中のごくごく一部分を表すべくあなたは作られました。
文字通り意識により作られたのです。
あなたがやるべきことはその一部分を体験的に知ることです。
自分を知るためにはまず自分を外に向かって表現しなければなりません。
そうすれば他者からの反応が返ってきますから、それにより自分が何ものかを知ることが可能になるわけです。(今、この記事書きながらちょっと感動しています。
そうやったんか、と納得しているところです。こりゃ自動筆記やな、まるで)
もう一度、意識の会話の部分に戻ってみましょう。途中、「わたしは愛である」という一文があります。
ここでいう愛とは「ア」と「イ」、これは「わたし」と「あなた」という意味なのですが、二元的な意味からもう少し解釈を広げて、「様々なものが集合したもの」ということだと思ってください。
我々は皆、様々なものの一部の代表として存在するわけです。
さて、ここで「わたしは何者か?」という命題について考えてみますと、確かに意識なんですが、その意識自体が「わたしは何者か?」と問うているわけです。
そしてその答えを体験を通して知ろうとして、今この世界があるわけです。
ということは現在、解答の真っ最中じゃないのか?ということになるんでございますよ。
ここまで話についてこられたあなたは偉い!!
つまり究極の命題の答えは「現在進行中」というのが一番正解に近いのではないでしょうか?
ここまで理解した上で、ではもう一度お尋ねします、「あなたは、何者か?」
あえて再度聞くからには、今度は違うスタンスなわけです。
つまりね、ここでは全体の一部分であるところのあなたは、じゃあどの部分なの?ということを聞いておるのです。
全体の何を代表しているのですか?ということなのです。
これに答えられる人はよほどのツワモノです。
禅の公案より難しいかもしれません。
さあ、あなたはどう答えます?
どのように答えられようが、それが正解かどうかは誰にもわからないのですがね。
ところが僕は自分自身が何者か知っています。
自慢じゃないけど「わたしは何者か?」という具体的な方の問いに対して明確に簡潔に答えられる数少ない人間です。
僕が肉体を離れた時に僕の本体たるエネルギーが帰っていく場所であり、僕の向こうの世界での呼び名でもあり、今回身につけてきた過去世の一つでもあります。
それは何か?
その答えはいずれ、どこかに書きましょう。
要するに僕が何を体験しに来たのかという答えですので、そう簡単には教えられません(そんな大層なことやないけど、ホントは、笑)
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誤解だらけの宗教
私、こういうメッセージを皆さんに届けるということをしていますと、以前はよく「それは宗教ですか?」と聞かれたものです。
正直言ってあまりいい気分ではないのですが、いったい宗教とは何でしょうか?
実は、世界中でこれほど誤解されている言葉もめずらしいのです。
通常は教祖や開祖と呼ばれる人たちの教えのことをさします。
つまり、仏陀やキリストやマホメットの教えのことなのですが、いいですか、本当はそういった教祖、開祖と言われている人たちは誰一人として一切、今言われているような教えなどは説かなかったのです・・・と言ったら皆さん信じるでしょうか?
”宗教”の宗の字のウ冠は、神(宇宙)の作用を表します。
つまり宗教とはその字の通り、「神(宇宙)の示すところの教え」という意味なのですが、この教えというのが間違って解釈されているのです。
教えというのは何か規則(教条)のようなものがあって、それを守りなさいというふうに捉えられていますが、そうではありません。
教えというのはものの理(ことわり)のことです。
要するにこの世界(宇宙)を支配する法則のことなのですね。
このことを理解している人が実に少ないのです。
ここでは、わかりやすく仏陀を例にとりましょう。
彼は長年にわたり苦行を続けますが、いっこうに悟りに達しないため、すべてあきらめてしまいます。
このあきらめるというのがミソなのですが、要するにどれだけ努力しても自分の力では何もできなかったと、すべてを天に委ねたのですね。
この瞬間です、彼が悟ったのは。
天に全託した結果、悟りが与えられたのです。
決して修行の成果として悟ったわけではありません。
ここを間違えないでください。
ただし、とことんまで修行した結果、それでも駄目だとわかったわけで、そういう意味では仏陀にとっては修行が無駄だったわけではないのです。
ところが現在、多くの雲水さんが「現在私は修行中の身で」なんてことをおっしゃるのですが、それは違うだろうと思うわけです。
では仏陀は人々に対して何を話したのかというと、彼らの悩みに対して宇宙の理を踏まえながらあくまでも相手に合わせて、相手が真理に気づき腑に落ちるように話しました。
これを対機説法というそうですが、例えば夫の暴力に悩んでいる妻がいたとしましょう。
その妻が経済的に裕福なのか、あるいは恵まれていないのかで話す内容が違うわけです。
場合によっては全く正反対のことを言うこともありました。
大切なことは何を話すかではなく、いかに相手が自分の中に眠る真理に気づくように導くかということなのです。
仏陀はあれだけの人でありながら、いや、あれだけの人だからこそ、どのような人間であろうともその人の中に仏性をみました。
十大高弟と呼ばれる人たちはいつも仏陀にくっついて回っていたのですが、皆が皆すべての説法を聞いたわけではありません。
先程の例で言うなら、ある弟子はお金持ちの主婦に対する話しか聞いていなかったりするわけです。
仏陀が入滅したのち、仏陀の話した内容を集大成して経典として編纂するわけですが、弟子が聞いた話はすべて非常に表面的なのです。
核心の宇宙の理ですら教えとして言葉にするともういけません。
この世界が空であるとか無であるとかいうのは、本人が体験して腑に落ちるべきものであって、教えとして言葉で語るようなものではありませんし、ましてや覚えたり学んだりする類のものでは決してありません。
理屈じゃないのです。
仏陀は入滅する際に「あとはお前たちが人々に教えを説いていきなさい」と言ったわけですが、ここで仏陀は間違えていました。
何を間違えていたかというと弟子たちが誰一人として悟ってはいないということに気がつかなかったのです。
仏陀というのは覚者(悟った者)という意味ですが、”悟った人の言ったことをいくらすべて覚えても自分が悟ったことにはならない”という当たり前の話が仏陀にはわからなかったのです。
悟りとはひとつの体験であって、学びの結果得られるものでは決してないということですね。
真に悟ったものだけが宇宙の理をもとに現世でいかによりよく生きるかということを自在に説けるのですが、その説法を学んだ者は同じような語りをするでしょうが、全く似て非なるものです。仏陀は自らは確かに悟りを得ましたが、弟子たちに悟りを与えるだけの力はなかったために、彼らは自分たちの立場を維持するためには経典を作ってそれを伝えていくのは自分たちしかいない、というスタンスをとらざるを得なかったのです。
これこそが仏教に限らず世界中の宗教が全く役にたっていない真の原因です。
いいですか、現在教祖とか開祖とか言われている人たちは皆、自分たちがそうなりたいとは思っていませんでした。
弟子たちが彼らの死後に勝手にまつりあげたのです。
それらの魂があの世で教団の現状を見て嘆き悲しんでいるのを知ったら皆さんはどう思いますかねえ。
言っときますけど、これ本当の話ですよ。
悟りについては別に述べたいと思いますが、おそらく近い将来に現在のすべての宗教は今のような形では残っていけなくなります。
いったいあと何千年待てば宗教が人を幸せにしてくれるのでしょうか?
これまでに述べたように、宗教の意味をそもそも履き違えているので現状のままでは絶対に無理なのです。
般若心経のツボ
まあ、日本人というのは般若心経を唱えたり、写経したりするのが大好きですね。
今、世の中には私訳本があふれかえっており、その事実が物語るのは、もしかしたら般若心経の真髄を誰も理解していないのではないか?ということです。
皆さんこぞって前半のいわゆるこの世界は無であるというところを苦心して訳されるのですが、あれは般若心経の核心ではありません。
核心は真言(マントラ)の部分にあり、それはつまり「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか」なのですが、これは玄奘三蔵がサンスクリット語を漢語に音訳したもので、もうこの時点で意味がないのです。
本来はサンスクリット語を話す人たちに音霊として 「ガテー ガテー パーラガテー パラサムガテー ボジスヴァハ」 というのがその人を覚醒させていき、その結果として前半に書かれているすべてが無であるということが腑に落ちるということなのです。
ですから日本人には日本人が悟るための音霊というのが必ずあるはずなのであり、般若心経をいくら唱えようが悟りはしないということです。
もちろんそれで心が落ち着くとかいうのはあると思いますが。
音霊は次のように作用します。
我々の脳は通常100%活性化しないようになっています。
つまりブロックされている回路が存在するのですが、ある種の音を聞くとその閉じている回路の一部が開き、それが結局この世界がどういうふうに成り立っているのかを思い出すきっかけになるわけです。
これは音だけについて言えるのではなく、ある種の図形や字でも起こり得て、梵字などはその典型的な例です。
日本人にとっての究極の音霊、私は何とかそれを見つけたいと考えていますが、今のところこれといったものがありません。
「南無妙法蓮華経」などはいい線いってると思うのですが、でも何かしっくりこないのです。
皆さんもぜひ考えてみてください。
悟りってなあに?
精神世界やスピリチュアルなことに興味を持っている人、宗教関係者等の実に多くの人たちが悟りを求めています。
「いったい、いつになったら悟れるんだろう?」
そればかり考えている人も少なくありません。
そもそも悟りとは何でしょうか?
どうすれば悟れるのでしょうか?
これは幸せになるためには幸せの定義を知らなければならないのと同じことですね。
悟りは「差取り」とも言います。
つまりわたしとあなた、自分と他人という分離意識を取ることという説明の仕方です。
また右脳と左脳の同期化という説明もあります。
右脳は物事をイメージつまり概念化する場所です。
左脳は現在起こっていることを認識するところです。
多くの人間は(既成)概念を通して今の現実を見ています。
つまり過去の映像をダブらせているわけです。
これではどんな出来事もその新鮮さを失い、人生がつまらないものになってしまいますね。
事実、世界中のほとんどの人がそうやって人生を無駄にしているのです。
そんなことをしていると、自らの創造性を発揮するところがなくなります。
要するに予定調和というのが重要視されてしまうということです。
悟るとそのようなことがありません。
そのままのことを認識し、自分を自由に表現するようになるのです。
右脳と左脳の同期化というのは少し難しいのですが、お互いに独立した状態でそれらが本来の機能を果たすということです。
自分は自分。
他人は他人。
違うものだけど、それは全体の違う部分であるということ。
属している全体は同じで、かつ各部分同士の境界線は引けない。
これがもう少し意識状態が高くなると、違う部分というような認識もなくなります。
同じものが場所によって形を変えているだけというのが近いでしょうか。
つまり悟りとは意識の状態のことなのですが、それには段階があって浅い悟り状態から深い悟り状態まであるということです。
悟りの定義に関しては実のところいかようにしようとも、間違いようがないのでして、的が広すぎてどんな定義をしても外れようがないというのが本当のところです。
著書の方では「・・・至高の悟りとも言える状態を目指して、この世界のあらゆるものは進化していっている・・・」と書いています。
その通りなのですが、この悟りを目指すというのが曲者でして、本来我々というか万物すべて放っておいても勝手にそこに行きつくようになっているのです。
なのに悟ろうと努力してしまう人がいます。
厳しい修行をする人がいます。
違うんですよ。
悟りのために努力するということは、始発駅から電車に乗って、そのまま乗っていたら勝手に目的地の終点に着くのに、その途中でしょっちゅう時刻表なり路線図なりを見ているという状態です。
そうすると窓から見える景色の変化なんか目に入らないでしょう。
お解りいただけますでしょうか?
僕たちはその景色を楽しむために電車に乗って旅をしているのに・・・。
瞑想はいろんな意味で意識を高めるために有効な手段であります。
でも瞑想したから悟れるということは絶対にありません。
座禅や瞑想で一時的に右脳と左脳が同期化することがあります。
あくまでも一時的なものですが、禅寺の老師などはその状態を一瞬見て、「あなたは見性した(悟った)」と伝えたりします。
しかしその状態は持続しません。
どれだけ難しい公案に答えられようが、そんなものは頭で考えたもので、それが悟りのレベルを測るものではありはしないのです。
悟りの状態は、例えそれがどのような段階のものであったとしても、真我からあなたへプレゼントのように与えられるものなのです。
ですから、一度悟りを欲したならば、あとはその事は忘れて捨て置くことです。
そして毎日人生を楽しんでいれば、そのうち気がついたらそうなっています。
悟る最大のコツは悟ろうとしないこと。
よく悟ると人に怒ったり腹を立てたりしないと勘違いされるのですが、それは間違いです。
ただしこのHPのどこかに書きましたが、感情の起伏は少なくなります。
感情というのは人間どころかあらゆるものに備わった大切なエネルギーです。
それを楽しむために生きていると言っても過言ではありません。
ただし、よく見られるように怒りが怒りを呼ぶとか、悲しくなって泣いていたら昔のことを思い出してまた泣いてしまう、などということが無くなっていくのです。
感情はあくまでもその時だけのもの。
そしてそれは味わうためのもので、その原因となった人や物に八つ当たりするのはこれは感情の表現ではありません。
ですから聖者と呼ばれる人も、その内面では様々な感情が起こっています。
ただその味わい方、表現の仕方が我々が一般に考えているようなものではないということで、悟っていくと皆さんもそのようになっていきます。
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信じるということ
今回は少々キワモノの話で始まります。
皆さんはサイキックヒーリングて知っていますか?
いわゆる心霊手術のことなのですが、どうもこの心霊という訳が胡散臭く聞こえるので、ここではサイキックヒーリングで通したいと思います。
今から約30年近く前にはよくマスコミで取り上げられていたのですが、結局トリックだということで終ったように記憶しています。
知らない人のために少し説明しておきますと、サイキックヒーラーと呼ばれる人が人の体の任意の場所に指を入れ、体のバランスを崩している原因となっているものを物質化して取り出すというものです。
指を入れた所は別に縫ってもいないのに多少の圧痕はあるもののはきれいに閉じてしまいます。
これを行えるヒーラーはごく限られていて、サイキックヒーラーとして区別されています。
任意の場所というのは、指を入れる場所が必ずしも症状がある所ではなく、その原因となっている場所であるということです。
そして物質化ですが、たとえば癌であれば癌細胞そのものを取り出すのではありません。
霊的次元においてそれを作りだしているものを物質に変えて取り出すということで、ではそれは一体何かと言いますと、それこそが人が生まれてきてからずっとため込んできた感情の澱であります。
(サイキックヒーラーですら自分が取り出しているものの正体を正確に知っている人はあまりいません)
すると病院で調べてもらったら、あれだけ大きかった癌病巣が小さくなってたり、全く消えていたりして医者が驚くということになるのですが、でもね結局そういうことをしてもその人は治らんのです。
やがて再発か別の病気になって死ぬことが多いのです。
ここまで私の書いたものにお付き合いして頂いている方にはお分かりだと思いますが、病気に対するとらえ方が全く違うのですね。
霊的次元とつながってヒーリングしているにもかかわらず、やっていることそのものは物質的次元のことであり、私に言わすと非常にレベルの低いヒーリングであるのです。
あ、ここまでサイキックヒーリングが当然のごとくに書いてきましたが、そもそも皆さんそんなことを信じますか?
私、実は過去何度も受けたことがあるのです。
別にそれを受けたいと思って受けたことは一度もないのですが、なぜか何度も体験しています。
また人がやられているのを目の前で見たこともあります。
最初の二回は当時、世界でも三本の指に入ると言われているフィリピン人のヒーラーでアレックスという人にやってもらいました。
サイキックがここでの主題ではないので、これについての詳細はこれ以上書きませんが、これは人から聞いた話ではなく私自身が実際に何度も体験した話です。
私の学歴、履歴を見て頂いて、またこのホームページの内容から考えて私が嘘をつく人間だと思われますか?
そもそも何のためにそんな嘘をつく必要があるのでしょう?
ちなみに私の兄は医者ですがこの話を全く受けつけませんでした。
いったい、人を信じるとはどういうことなのでしょう?
人は自分の常識にないものは、まず疑ってかかります。
その際に自分の常識を守るために、対象となっているものや人を否定しようとします。
そしてその傾向は、かつてたくさんの社会常識や知識を頭に叩き込んだ人ほど強くなります。
いわゆる頭のいい人ですね。
でもね、考えてみてください。
我々の常識となっているものなんて宇宙全体の真理から言えば、塵みたいなものです。
その塵を基準にして全体を見た時に、当然初めて見ること聞くことがあるのですが、その時に全体を否定する行為自体が間違っているでしょう。
私は神様なんてこともごく当たり前に言いますが、そんなもの信じないという人だっているわけです、かなりたくさん。
でもね、じゃああなた達が否定しているのはわかったけれど、そもそも神様って何?あなた達は何を否定しているの?と聞いたとすると、絶対きちんと答えられないのですよ。
要するに神が何か?神の定義をわからずしてそのものを否定しているという、まことにもって馬鹿馬鹿しい話であります。
あんたアホちゃう?と言いたくなります。
(神とは何かについてはコチラ)
私が「こいつ頭いいなあ」と思う人は、自分が初めて出会った物事を決して否定せずに、先入観なくまずはそれを体験する人です。
その上で自分がどう感じるかを語る人です。
そしてそういう人は受験戦争を勝ち上がってきた人の中に見出すのは困難であると言っておきましょう。
私が今の教育システムに対して言いたいのは、「もうこれ以上阿呆を作らんといてくれ」ということです。
アナタハ、カミヲ、シンジマスカ?(笑)
日本人のための究極の言霊
私は般若心経に代わる日本人のための究極の言霊を探していると書きました。
実は先日ある夢を見たんです。
それは古文書を開いて読んでいる夢でした。
その古文書のある右頁最下段に短い詩のようなものがあり、そこに注意を向けているのです。
夢の中で私は思いました。
「待てよ、俺は今、日本人のための言霊を探してるんやから、もしかしたらこれがそうじゃないのか?」
そこでその詩のようなものを読み始めました。
一行一行は短く、全体で七、八行しかありませんでした。
その詩の最初の二行を読み終わった瞬間・・・目が醒めたのです(泣)。
「あ~、俺のバカ、バカ、バカッ」 でも、もうどうしようもありません。
もう一度寝ようとしましたが無理でした。
ところが最初の二行だけは鮮明に覚えているのです。
それはこういうものでした・・・「神可舞 人可舞」
これは「シンカム ジンカム」とよみ「神すべからく舞い 人すべからく舞う」という意味です。
あのですねえ、私ずっと日本人向けの言霊をああでもない、こうでもないと色んな言葉をつなぎあわせてみたりして探し続けてきたのです。
でもね、普通「神可舞 人可舞」なんて言葉思いつきますか?
絶対無理ですよねえ。
ですからもう自分で無理に考えるのはやめました。
どうしたってそんな言葉は思いつかないので、自然に与えられるまで待とうと決めたのです。
ところがそれから二日ほどたって電車に乗っているときにふと、全部で七行くらいなのだったらあの続きはどういうふうになるのだろう?と考えました。
するとつぎのような言葉がするすると頭の中に浮かんだのです。
カミノウタ
神可舞 人可舞 人可舞 神可舞 互合仕 而成幸 成全歓 (シンカム ジンカム ジンカム シンカム ゴゴウシ ジセイコウ セイゼンカン)
神すべからく舞い 人すべからく舞う 人すべからく舞い 神すべからく舞う 互いに合い仕え しこうして幸せとなす すべてが歓びとなる
どうですか?
確かに「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい・・・」に比べると音霊としては弱い気がするので、これ自体が日本人の脳を覚醒させるかどうかはわかりませんが、ただ意味とすればよく通っているのですよ。
それも3×7で21文字ですよ。
3も7も神(宇宙)を示す数字であり、例えば精神世界で真剣に何らかのセミナーをするときは通常21日間コースとなるくらい、人が覚醒するのに必要な数字なのです。
まあ、後の五行は私が考えたと言えなくもないので、この詩の価値の判断は皆様に委ねますが、私は結構気に入っています。
この宇宙がどのようにして創られたか、そして宇宙創造の目的は何か?ということに関しては著書を参照して頂きたいのですが、宇宙創造の瞬間、神はあらゆることが体験できるという歓びで大きく舞ったのです。
その結果、その創造の目的通りに人間が人生の中で自由に舞っていました。
人が人生を自由に創造すると、また神も嬉しくなって大きく舞うのです。
神は人を通じて自分を創造、再創造しているのですね。
人が自分の生まれた目的通りに生きだすと、神(宇宙)は喜んで人の人生の創造を益々手助けするようになります。
それがシンクロニシティというさも偶然のようにみえる出来事や、人との出会いという形になって現れます。
この神と人がお互いに相手に仕え合う状態、これを仕合わせ=幸せとよびます。
この状態になると、どんな悲しいことも、つらいことも、もちろんうれしいこともすべてが歓びとなります。
どうです、いい言霊でしょ。
あ、これ最近気づいたんですが、般若心経の前半であれも無いこれも無いといってるのに、善悪が無いということだけは書いてないのですよ。
何か理由があると思うのですが、物事に善悪の判断を持ち込むのが人が苦しむ一番の原因なのに明らかにこれは最も大事なことを欠いています。
画龍点晴を欠くとはこのことですね。
真実とは何か?~所変われば品変わる~
ちょっとここらで人の気持ちを考えてみる、というのをやりましょう。
一般的に真実はひとつだと思われていますが、違いますねん、これが。
え~っと、量子力学の基本中の基本ですが、”あらゆる事象は観察者の影響を受ける”という事実があります。
分かりやすい例でお話しします。
今、わたしとあなたの間にリンゴを一つ置きます。
当然ですが見ている視点が違うので、厳密に言うと同じリンゴが二人には違って見えます。
では、わたしが素早く動いて奇跡的にもあなたの目があった場所にわたしの目がきたとしましょう。
でもどれだけ速く動こうが時間が経過しているので、わたしが今見ているリンゴは先ほどあなたが見ているリンゴと同じではありません。
少々ややこしいのですが、これをよく考えていくと、わたしがリンゴを見ているある時空間を所有している限り(わたしの目がある位置をとっている限り)、他の人はわたしとまったく同じようにリンゴを見ることは不可能なのです。
この考えを広げていくと、実は誰一人同じものを見た時に同じようには絶対に見えない、ということがわかります。
もっと言うと、同じものなど存在しないわけですね。
ではリンゴの真実はどこにあるでしょう?
つまり真実なんてものは視点の数だけあるのですね。
そしてリンゴをあらゆる視点から同時に見る、なんてことができるのは神様しかおらんのですよ。
今のは単に視点だけのお話でした。
では仮に、わたしとあなたの体を重ね合わせてまったく同じ時刻に同じ視点からリンゴを見ることができたとしましょう。
さて、同じように見えるでしょうか?
これはですね、二人のリンゴに対する今までの経験が違うからまたしても同じようには見えないのであります。
わたしはリンゴが大好物だけれど、あなたは大っ嫌いかもしれません。
もう同じようには見えないですよね。
先週近所の人にもらったリンゴがまずかった、むかしリンゴを食べすぎてお腹をこわしたことがある、等々。
一般的に人間はある出来事を体験する時に必ず過去の記憶をそこにかぶせてしまいますので、視点が同じでも見る人が違うと見え方が異なってくるわけです。
結局、誰も他人が見ているようには物事は見えないのだということを理解する必要があります。
(ちなみに覚醒した人間はそういうことがありません。すべての体験を新鮮なものとして味わうことができます)
我々は往々にして、どうしてあの人はああいう風に言うのだろう?この人はどうしてこんな態度をとるのだろう?と思っちゃいますよね。
同じ出来事に出会ったとしても人によって視点が違うし、それにまつわる経験だって違うわけです。
その際、その人が出来事から無意識のうちに自分を守る(正当化する)ために、出来事から逃げたり、他人を攻撃したり、無関心を装ったりするのです。
あなたが見ている真実はあなただけの真実です。
でもそれはその視点から見ればまさに正しい。
でも違う見方もまた然り。
究極の現実を理解するためには、視点は多ければ多いほど良いし、様々な経験をしている多種多様の人間がいた方がいいに決まっているのです。
結局、他人を否定しているところからは何も始まらないというお話でした。
至高の体験
先日とあるスピリチュアルセミナーに参加していた時の話です。
土曜日の午後から始まったのですが、会場ははじめから今までちょっと経験したことが無いくらい高いエネルギーに包まれていました。
セミナーの最初に主催者の方のお話があったのですが、それはほとんどが今までにその方から聞いたことがあるか、私自身が著書の中にも書いているような内容でした。
いつもなら、一見真面目に聞いているふりをして頭の中では「ああ、この話は前にも何度も聞いたことがあるなあ」とか「この話は知ってるよ」などの考え(マインド)が浮かぶのですが、その時だけはそのような考えが全く浮かんできませんでした。
浮かんでこないというよりは、何か考えようとしても考えられない状態だったのです。
お話の途中でその方から私の著書の内容についての質問を受けたのですが、それにもとっさにうまく答えられないくらいの状態でした。
今聞いている話が知っている話であるという認識は確かにあるのですが、にもかかわらずその話を始めて聞くような新鮮な気持ちで聞いている自分がいるのです。
これはまったくもって生まれて初めての体験でした。
例えて言うならば、いつもの私の頭の中が新聞の一面くらいの量の考え(マインド)が浮かんでは消えている状態だとすると、その時は一面の中でたった3,4行くらいしか考えが浮かんでいないのです。
素晴らしい恩寵ともいうべきその体験は、会場の非常に高いエネルギーが与えてくれたとしか言いようがありません。
ということはです、その3,4行以外の膨大な量の、さも自分が考えたように錯覚している頭の中に浮かぶ文章は、自分の考えでなくマインド(既成概念)が勝手に頭に入り込んできているだけなのだということなのですよ。
これはワンネスディクシャと呼ばれるエネルギーなのですが、このエネルギーは右脳の活動を抑制し左脳の活動を活性化します。
右脳というとヒラメキに関係したりしていると言われているので、 それを抑制するのは一見良くないように思えますが、右脳は物事をイメージでとらえますので、人の話を聞いたりした時に「あ、この話は前にも聞いたことがある」というふうになりがちなのです。
実際には話の内容が似ていたとしても全く同じ話であることはありませんし、聞いているときの状況だって異なるはずです。
それなのに似たようなパターンのものをすべて同一化してしまうので、新しく体験することが過去の繰り返しであるような錯覚をし、生きることが新鮮でなくなってしまうのです。
左脳は物事の認識に関係していますので、今現在体験していることをそのまま認識、体験するのに役立ちます。
ワンネスディクシャについての詳細はここでは省略しますが、つきつめて言うとマインド(既成概念と言い換えても可)が私達の脳を支配しようとするのから解放してくれて、人生で起こるあらゆる出来事を常に新鮮に体験できるようにしてくれるエネルギーであります。
そしてその先にこそ我々が求めていた幸せがあるのです。
瞑想や座禅はこの状態にいざなうのに大変に有効ではありますが、お分かりのように自力でその状態に到達するのは無理なのです。
あくまでも恩寵として天から与えられるものであるということです。
その恩寵はどうすれば受け取れるのかというと、ディクシャを受けるのが最も早道ではあるのですが、皆さんが本来の自分の核心である聖なる存在(真我、ハイヤーセルフ、ディバインプレゼンス)をハートに迎え入れ、強くそれとつながることが大切です。
2012年問題の真実
2012年問題とは2012年12月21日で古代マヤ歴が終わっていることから、その日に世界が滅亡するのではないかというものです。
これについては様々な情報が流れていますが、ここでは私なりのビジョンをお話したいと思います。
実はマヤ歴の終了はその日をもって旧来の世界が終り、次の新しい世界が始まるということを意味します。
ですから本来であれば、分離やエゴの渦巻く暗黒の世界から統合と喜びの光の世界への次元上昇となるはずでした。
ところが、人類のワンネスの意識への目覚めの速度があまりにも遅いために違う現実へ移行しようとしています。
それこそが天変地異による人類滅亡というシナリオです。
現時点ではまだ、地球が光と喜びの五次元への次元上昇を果たすという現実と、地球(ガイア)自体が生き残るために地殻変動を起こし、すべてを御破算にして一からやり直すという両方の平行現実(パラレルワールド)が存在します。
あとは人類がどちらの現実を意識するかにかかっています。
過去数えきれない位、地球は我々にメッセージを送り続けてきました。
でも人類の集合意識はそのメッセージをずっと無視してきたのです。
その結果、地球はこれ以上待てないところまで追いやられてしまいました。
地球そのものの存続にかかわるようになってしまったのです。
そこで仕方なく自分の住人であり、管理者であるはずだった人類を一掃してまた数十億年という時間をかけて再度次元上昇に挑戦するということも考慮せざるを得ないのです。
ただし最悪の場合でも2012年12月21日に人類が滅ぶということではありません。
その日から約5、60年かけて何度かの地震、天災を繰り返しながらクリーニングしていくというふうになります。
過去何度も現在の我々よりも進んだ文明を持った人類が同様に海の底に沈んでいきました。
ある程度まで文明が進化すると人類というのはどうしても核戦争を起こしてお互いに殺し合ってきたようです。
ところが今回だけは事情が違って、地球が無事に次元上昇を果たすことが全宇宙にとって必要不可欠なのです。
その理由をご説明しますと、この宇宙というのは定数制がひかれていて、各次元の定員(エネルギー)は一定になるように定められています。
つまり、地球が三次元から五次元に次元上昇するなら、現在五次元にいる生命体のどれかが次の次元に次元上昇して空席を作らないといけないのです。
逆に言うと、五次元にいるある星が七次元に行くためには自分のあとを埋めてくれる星が下から上がってくれる必要があるわけです。
地球というのは全宇宙の中でちょうど真ん中に位置する(地図上の話ではなく、エネルギー的な観点のこと)ので、地球が無事に次元上昇を果たすことは全宇宙の最大の関心事なのです。
ですから現在地球には宇宙のあらゆる所から霊的な支援がなされています。
2012年というのは、惑星の配列や地球の磁場の関係上、過去の進化した文明を持つ人類たちと違って、現代の地球人類は非常に覚醒しやすい有利な状況に立つ年なのですね。
それでもなお、今のままではあまり安心できる状態ではありません。
一刻も早く全人類がワンネスの意識に目覚める必要があります。
そのためには今年中に日本が覚醒する必要があるのです。
このことについては詳しくは述べませんが、実は純粋な地球生まれの地球育ちというのは日本人だけだからなのです。
まずは我々日本人が和の精神で天と地をつなぎ、人と人を結ぶ地球の守護者となる使命があるのです。
ではいったいどうすればワンネスの意識に目覚めることができるのでしょうか?
どうぞ私を活用してください。
このホームページや著書を何度も読んでください。
何かを勉強する必要など全くなくて、単に忘れていることを思い出してください。
あるいは日本にはそのためのセミナーを開いている方が少なからずいらっしゃいますので、そういうところを訪ねてみるのもよいかと思います。
よく自分の周りを見回してみれば必ず何らかの縁があるはずです。
それをたどってください。
その中でもどういう基準で選べばいいのかという注意点だけ申し上げます。
講師が自分を特別な教祖のようにせず、依存させようとしないこと。何らかの教えを覚えさせて守らせようとしないこと。
セミナーで生計を立てている人にはそれなりの謝礼が必要でしょうが、あまりに高額だとおかしいと感じる必要があります。
何より大切なことは、皆さん方の中に真理があり、神性さがあるので、それに気付くようにもっていくということです。
どうか、あまり悲観的にならないでください。
どのような結末を迎えようが生命は永遠です。
ただ、宇宙的な意味合いからも今回は是非とも無事に次元上昇したいものです。
人が生きていく上で最も大切なこと、それは今を楽しむということです。
この世界はあらゆることを楽しむために創られたのですから。
そう、絶対に大丈夫ですよ。
2012年問題最新情報はコチラ
アセンションに関する話は「シャスタからの重要なメッセージ」をご覧ください
アセンション最新情報はコチラ(2011年4月8日現在)
過去世の真実
時間という概念に縛られている三次元世界においては非常に限られた視点になりますので、過去世について言葉を用いて正確に説明することは困難であります。
そもそも時間というのが本来存在しないというスタンスに立てば過去世という言葉自体がおかしくなるわけです。
そのあたりも含めて著書の方には必要なことは書いてありますが、それ以上のこととなると絵を描きながらでないと説明しづらいので省略しています。
過去世の問題は個人や惑星のアセンションともからんだ宇宙の大変に壮大な話なのでして、過去世というものがあるとかないとかいうレベルのことじゃないのです。
それでありながら、私はずっと過去世療法というものに対しては否定的でした。
その効果は認めるものの往々にしてクライアントが現実世界で起こることの原因をすべて過去世に求めようとしがちになることを危惧するからです。
ところが書籍案内でも紹介していますが最近、「この星の守り手たち」という本に出会って考え方が少し変わりました。
内容は現在地球に住む若者が過去世療法の中で自分の宇宙人としての過去世を思い出していくという話で、これは少なからず衝撃的でした。
その本の中でこんなくだりがあります。(少し言葉は変えて引用しています)
セラピスト:「ではあなたは今までに何度地球に転生してきたことがあるのですか?」
クライアント:「実際に地球で生きるのは今回が初めてです」
セラピスト:!?いったいどういうことなのだ。彼はこれまでの私とのセッションの中でいくつかの地球上での過去世を語っているではないか。「では、セッション中経験した過去世は偽物だったのですか?」
クライアント:「それらは記憶が刷り込まれたにすぎず、実際に私がその生を生きたわけではありません。 魂は生まれてくる前にアカシックレコードから情報を取り出して自らに刷り込むことができるのです」
私は本を読むのは結構早い方だと思うのですが、この本に関しては内容が3次元と4,5次元を行ったり来たりするので5ページ位読むとすぐに疲れてきます。
すごく面白いにもかかわらず、一気に最後まで読めません(泣)
魂が初めてある惑星に転生してくる際に、その惑星で生きた過去世を身につけてくる方がその惑星に馴染みやすく、それゆえその時の体験がスムーズに行われるのだそうです。
これは私が著書の中で述べているアメーバ理論そのものなのですよ。
この本は3千円近くするのですが、パラパラと立ち読みしたのがちょうどこのページだったので、よしこれは買おうと決心したのです。
過去世というのは魂というエネルギー体が身につけてくる記憶の断片みたいなもので、非常に変幻自在なんですね。
そしてそれが今生を生きる上で非常に役立ってくれるのです。
そういう意味ではトラウマと同じようなものかもしれません。
トラウマとはその人の性質を決めるもので、過去世は今生を陰で彩るようなものです。
ところが人間は今生でトラブルがあるときにその原因をトラウマや過去世にもっていこうとしがちです。
違うんです。
トラブルの原因は出来ごとの体験の仕方にあるのであって、その体験の仕方が問題なのは自分自身の質(トラウマや過去世により決定づけられる性質)に対して本人が否定的な感情を持っているからなのです。
おそらくアメーバ理論くらいシンプルかつ的確に過去世のことを説明しているものはこれまでも、またこれからも出現しないでしょう。
あ、知らない人に説明しておきますと、写真の人形は作郎といいまして一応、「シャングリラからの伝言」の著者ということになっています。
ずっと日の当たる待合室に座らせていたら着物が色落ちしてしまって、今は随分みすぼらしくなってしまいました。作郎、ゴメン。
自殺した魂はどこへ行くのか?
人が死ぬと(魂が肉体を離れると)どうなるのかということについては、神へ帰るという本に詳しく書かれており、これが最もかたよらない見方をしていると思うので是非ご一読なさることをお勧めします。
基本的には人は死ぬと生前にその人が死後の世界をどう考えていたか、というのを強く反映した世界に行きます。
つまり、お花畑にかこまれた天国に行くと考えていた人はその通りの体験をしますし、地獄に落ちると考えていた人もまたその通りの体験をします。
思考が現実を作るということをここでも経験することになるのですが、ただし、それはあの世に行ってからしばらくの間の話で、最終的にはあなたはガイドの誘導のもとにこの世界の本当の姿を理解し、その法則にのっとってさらに進化する道を歩んでいきます。
地獄に行くと書きましたが、まあこれは言葉のアヤみたいなもので本当は地獄など存在しないのです。
どういうことかと言いますと、あなたが地獄の釜で煮られると思っていたなら、その通りの体験をするのですがその時に熱いとか苦しいとかいう感覚はありません。
さながら夢の中の体験のごとくで、確かにその体験をしているのだけれどあなた自身が実際に傷つくわけではないのです。
映画の中で演じている自分を客席で眺めているようなものですね。
いずれにせよ、そのうちあなたの守護天使があなたを助けにきてくれます。
あなたが体験している地獄はあなたの思考が作りだしている幻想である、ということを教えにたくさんの天使があなたの周りに集まってくるでしょう。
あとはいつあなたがそれに気づき、そこを離れるかというだけです。
さて、死ぬ前のこだわりやとらわれが強い人の場合は少々やっかいです。
お酒やニコチン、薬物の中毒になっていた人は、死んでからもずっと同じように中毒したままです。
これらの人々は多くの場合四次元というか幽界というか、中途半端な次元にはまり込み守護天使もなかなか手を出しづらくなります。
助けようとするのだけれど、本人のとらわれが強すぎて助けの手が見えないという状況なのですね。
またこういった魂は、生きている人間にとり憑いてその体を使ってまだ酒を飲もうとしたりします。酔うと人が変わったようになる人っていますでしょ。あれなんかそうなのですね。
では、自殺した魂はどうなるのかと言いますとこれも同様なのです。
例えば借金を苦に自殺したとしましょう。
この場合、先程の例と同じように死んでからも借金に追われる体験を延々とし続けるかもしれません。
あるいは死んだら全部チャラだと考えていた魂は本当にチャラの世界に行ってしまいます。
つまりね、すべて無くなると思っていたわけですから、無の世界、全くの闇の底に沈んでしまうのです。
これを助け出すのはさすがの守護天使にも至難の業で、いわばエネルギーのブラックホールのような所で、うかつに近づけないのですよ。
死んでしまえば苦しみから解放されて天国に戻れると考えて自殺した魂がいたとしましょう。
これね、すんごく考えが甘いのです。
自殺した原因というのがありますよね。
別に多額の借金でなくても、「なんだか生きててもつまんない」と考えて自殺する若い人だっているわけです。
この場合でも人生がつまらないと考える原因、すなわちその子の心を縛っている何かがありますので、そのとらわれが死んでからの現実を作ってしまいます。
人は誰でも生まれてくる前にこういったことを体験したい、とあらかじめ決めて生まれてきます。ただし、あくまでも体験したいというだけであって、何かを成し遂げなければならないということではありません。
つまり、親にあまり愛されずに育つという体験を選んだのであれば、そのことにより様々なトラウマを抱え、それを背負って一生生きていくということをやりたかったわけです。
よく勘違いされるのは、そのトラウマを克服し人を愛せるようにならなければいけない、と考えられている点です。
違うんです、皆さん死ぬ時はすべて理解した上でしか死なないようになっているので、どんな分からんちんの人も死ぬごくごく一瞬前には必ずすべてを悟るのですよ。
ですから、親に愛されなかったから自分も人を愛せないということをそのまま体験すればそれでOKなんです。
ここ間違わないでくださいね。
人生は魂の学校とか修行の場なんかじゃ絶対ありませんから。
それでです、自殺しちゃうと自分が決めてきた体験を途中で投げ出すことになるわけです。
そうしますとね、死んでからまあその、死ぬほど後悔するわけです。
ただし、後悔するのは無限地獄から奇跡的に救出されてから後の話であります。
もちろん助からない魂はないのですが、地球時間でいうところの気の遠くなるくらい長い時間を闇にとどまってしまうのです。
ようやく光の世界に立ち戻った魂は、「ああ、またやっちゃった・・・。確か前の人生でも中途半端に投げ出したんだった。くそっ、またもう一度生まれ変わりの列の後ろに並んでやり直そう。え、何です?もし日本の平成に生まれ変わるならあと5千年待ちですって!?」
ですからね、私は思うのです。
そりゃね、死にたい気持ちもわかります。
かく言う私も、かつて電車に飛び込もうと思ったことが一瞬あったのです。
単にその時にかつて自殺した人のマインドというかエネルギーのかけらを頭が拾っただけなんだということが今はわかるのですが。
でもね、上に書いたことは本当の話なんです、残念ながら。
だからね、いつだったかテレビで有名なスピリチュアルカウンセラーの人が言ってましたが、何があっても、石にかじりついてでも、最後まで人生を行きなきゃダメ。
お勧めの映画があります。「奇跡の輝き」 是非ご覧になってください。
2011年3月1~3付けのブログにおいても、これらについてわかりやすく書かれています。
久しぶりにこの記事に追記します(2013.2.26)
自殺を真剣に考える人の多くは、かつて自殺したことのある過去世を持っています。
潜在意識においてその影響を多分に受けるわけです。
で、今回自殺しました。
長い時間かかって幸運にもまたこの世に生まれてくることが出来たとします。
でもその時は必ずと言っていい位、今回の過去世も背負ってくることを選択します。
で、来世ではどうなるか・・・・・・もうおわかりでしょう。
ずっと堂々巡りをして、これが本当の地獄かもしれませんね。
ディクシャって何?
ディクシャについて本ホームページではほとんど詳しく説明してきませんでしたが、それについて書かれている他のホームページを検索してみると、私の見たところどれもあまり一般向けではありませんでした。
ディクシャについて知っている人が読むとわかるが、知らない人が読んでもわかりにくいというのが多いのです。
私が覚醒していく過程で大きな役割はを果たしているディクシャについて、もうそろそろ書くべき時が来たのかもしれません。
ディクシャ(正式には我々がやっているディクシャはワンネスディクシャといいます)はかつてシャクティパットと呼ばれ、インドやチベットにいるマスターがただ一人の弟子だけに悟りを授ける儀式でした。
それが長い間途絶えていたのですが、インドのカルキバガヴァンという人がワンネスムーヴメントを推進していく中で人々を覚醒させる手段として復活させたのです。
このエネルギーの本体は宇宙からやってきますが、その強力な中継点かつ地球におけるディクシャの責任者としてバガヴァンが存在しています。
ですからワンネスディクシャのエネルギーはバガヴァンを通してしか流れないようになっているそうです。
ただバガヴァンが直接世界中の人にディクシャをするわけにはいかないし、彼のエネルギーは強すぎるので、彼の教えを理解しセミナーを受けた人がディクシャギバー(ディクシャインストラクターともいう)と呼ばれ、それらの人々が世界各地で周りの人々にディクシャをしていくということになっています。
今、日本には1000人を超えるディクシャギバーがいて、その数はどんどん増えていっています。
この間なんか、歯学部の同級生が知らないうちにギバーになっていてビックリしました。
数年前まではインドのワンネスユニバーシティというところに21日間の覚醒のコースを受けに行かなければディクシャギバーにはなれなかったのですが、事態がさしせまってきたため(2012年問題のこと)、現在ではもっと気軽に国内で2泊3日のセミナーを受講すればギバーになれるようになりました。
様々なインストラクターが自分なりのセミナーを開催していますので一度お近くのインストラクターを訪ねてみられたらいかがでしょう。
インストラクターのレベルは様々ですので皆さんの直観に従って、心地が良いと思われる人とお付き合いなさることをお勧めします。
エネルギーが強い人が必ずしも良いインストラクターではないということだけは強調しておきます。
もう少し詳しくお話しすると、往々にしてインストラクターがワンネスのため、皆を幸せにするためという大義名分のもと、結局はそうしている自分に惚れてしまうというかディクシャがインストラクターの自己実現のための道具になってしまうことがあるのです。
これをインストラクターのエゴといいますが、ディクシャに限らずスピリチュアルセミナーを開いている人でそういう人は決して少なくありません。
私のお勧めはjoyヒーリングの会主催の中西研二さんのセミナーです。
なぜここをお勧めするかというと、このセミナーは非常に個性的かつ素敵な人たちが集まり、笑いと涙の中で進んでいくので「みんな違ってていいんだ、でもみんなが本当はつながっていて、結局はひとつなんだ。そう、わたしは一人ぼっちじゃなかった」ということを実感できるからです。このことが腑に落ちるとね、あなたね、号泣しますよ。
だからオタッキーに一人で精神性を追求する人には向いていません。
ディクシャのやり方には大まかに言って2通りあって、1つは相手の頭の上に両手を載せてエネルギーを直接送るやり方(ハンズオンディクシャ)、もう1つは相手に触れずに意識の中でディクシャをするやり方(スマラナディクシャ)です。
ディクシャを受ける人が大人数の場合一人一人にハンズオンしてもよいのですが時間がかかるので、意識によりディクシャを行うことが多いです。
どちらがエネルギーが強いとかいうことはありません。
ハンズオンの場合およそ20秒位エネルギーを流した後、しばらく仰向けになって休んでもらいエネルギーが全身に浸透していくのを待ちます。
それが約15分から20分くらいなのですが、その間に人によれば様々な体験をすることがあります。
自分が生まれてくる時のことを思い出したり、過去世を思い出したりすることもあります。
すべてその時点でのその人に必要なことしか起こりません。
ですから何の体験もないことだってあるのです。
ディクシャを受けても何も変わらないという場合、エネルギーの通り道が詰まっていることも考えられます。
過度な肉食をしていたり、喫煙、飲酒(人のこと言えない)、運動不足などがあるとディクシャのエネルギーは通りにくいと言われています。
またディクシャの効果は多くのことを勉強して頭に詰め込んできた人ほど出にくく、逆にあまりものを考えず感覚だけで生きているような人の方が出やすい、それこそ一回のディクシャで悟っちゃったということが起こったりします。
さて、ディクシャの作用とはいったい何でしょう?
そのエネルギーは脳に直接働きかけ、ある部分を活性化し、またある部分の活動を抑制するのですが、もう少しわかりやすい例で説明します。
ミカンを食べる時のことを考えてみてください。普通はただ何となくミカンの皮をむいて、口に入れ甘いか甘くないかで美味しいかどうかを判断するといったところでしょう。
極端に言うとミカンを味わうというよりは、それが美味しいかどうかを判断するために食べるという行為をしているといっても過言ではありません。
もう今までに何度も何度も体験していることだから、あなたの心が少しでも動くとしたらそのミカンがよほど美味しかった時くらいですよね。
そのミカンを食べるのは初めてであるにもかかわらず、過去の体験をなぞるような行為しかしないわけです。
ミカンを食べるというのはこんなものだという感じで食べているわけです。
実はこのことこそ人生をつまらない、感動の少ないものにしている原因なのですよ。
ディクシャを受けるとミカンを食べるという行為が変わります。
そのミカンのきれいなオレンジ色、その肌触り、そして皮をむいた時の指の感触とたちのぼる匂い、口に入れた時の感触と歯を立てて汁があふれだした時の感覚、そしてそれらを咀嚼し飲み込む時の感じ、これらをひとつひとつ独立した真新しい体験として味わうようになります。
過去をなぞるのではなく、今新たにそれを体験しているのだという感動があなたを包むようになります。
だって、ミカンを何万個食べようがどれ一つとっても同じミカンなんてないし、食べるという体験も本来同じではありえないので、すべてが新鮮であるべきなのです。
ところが人間の脳は過去の経験を記憶として蓄積し、それを今体験中のものに重ねてしまうので感動が薄れてしまうのです。
これはちょうど赤ちゃんのようなものです。
赤ちゃんは同じことをずーっとやっていても飽きませんよね。
まだ記憶が蓄積されていないので、ひとつひとつの体験が新鮮だからです。
既成概念もないから自分の周りは好奇心を奮い立たすものばかりです。
ティッシュペーパーを次々引っぱりだすのが悪いことでしょうか?
手にしたものを今度は唇や舌でその感覚を味わうのがいけないことでしょうか?
心と体が欲するままにそれを満たしてやる。
それこそが生きるということではないですか?
言っときますが、大人がこの言葉を誤解して取るとややっこしいので注意してくださいね。
そういう意味ではないです。
このようにディクシャというのは、あなたを既成概念(マインド)から解放するように働きます。
これは人類がずっと蓄積してきた定型的な記憶からの解放といってもいいでしょう。
既成概念から解放されたあなたには世間は違って見えるはずです。
自分自身も自分以外の人間も今までとは違って見えるでしょう。
その時あなたはもう一人の自分、いや本当の自分かな?を発見するでしょう。
あなたは実はずっと守られてきたことを、そしてみんなから本当は愛されてきたことに気づくはずです。
あなたはこの世界の大元と直接つながり、必要な情報はそこから直接受け取るようになります。もうこんなホームページ読まなくてもよくなります。
私がずっと言ってきた「真理はあなたのすべての細胞に刻み込まれていますよ」ということの意味がおわかりになるでしょう。
それこそが「シャングリラからの伝言」が目標とするところなのです。
そう、皆が「シャングリラからの伝言」を必要としなくなる時こそ、TEAM KAPPAが報われる時ですね。
そんなこと信じても信じなくてもいいんです。
害はないもんだから、一度試してみたらどうですか?
随分長くなったので私自身についてのディクシャ体験は別途報告します。
追記: どうも、自分でディクシャをやっていながら、ディクシャについての説明をこのページにリンクして済ませている方が何人かおられるようです。
普通に考えてあり得ません、そんなこと。
ディクシャのようにクライアントの精神活動に影響を及ぼすような行為に対する説明を自分で出来ないのなら、ディクシャなどやるべきではないでしょう。
日本に7人居るワンネスメディテーターのホームページにリンクを張るなら、まだわかりますが、僕はただのディクシャギバーであり、それも現在はディクシャ活動をしていませんし、ディクシャに価値を見出しておりません。
今僕はそのような次元にいないのです。
そのようなことを常識的に感じないなら、その人は信用するに足りないと申し上げておきます。
シャスタからの重要なメッセージ
つい先日シャスタから戻ってきました。
今回のツアーでは二つの大きな目的があり、ひとつはロス在住の日本人の方々に私の著書「シャングリラからの伝言」を届けること、そしてシャスタクラブでハルミさん、ヒデさんにお会いすることでした。
シャスタではお二人のセッションで私のガイドからの個人的なメッセージももらったのですが、それとは別に皆さんに是非ともお伝えしなければならないことがインスピレーションでおりてきました。
それは2012年のアセンションに関することです。
この内容をよくよく理解して頂き、皆さんの覚醒をスムーズに進行させてもらいたいと思います。
このホームページをご覧の方は当然アセンションのことはご存知でしょうし、それに向けてご自身の魂の準備をしておられることでしょう。
ところが、よく観察していますと実に多くの人が自分自身の覚醒による自分自身のアセンションというところに関心が集中しているようです。
嫌な言い方をすれば自分が覚醒することによって、もしかしたら起こるかもしれない2012年前後の地球規模の大災害から助かる側にいたいというふうに映るのです。
もしそうなら皆さんは今回のアセンションのことを誤解しておられます。
今ここに非常に意識状態の高い人がいたとしましょう。
アセンションに向けて準備万端というところですが、ある日交通事故に遭って2012年を目前にして亡くなってしまいました。
肉体を離れたその人の魂は次にプレアデスかオリオンかあるいは再度アセンション前の地球か、その魂のエネルギーレベルに応じてどこにだって転生できるのですが、そうすると一体地球における個人のアセンションとは何ぞや?ということになるのです。
あなたの亡くなったお父さん、お母さん、あるいは早逝された友人たち、その人たちは何故2012年まで地球に残らなかったのでしょうか?
アセンション前にこの世を去る人と、そうでない人は一体何が違うのでしょう?
つまりですね、人間個人のアセンションなどというのはあまり問題ではないのです。
アセンションの主体はあくまでもガイア(地球)であって人類ではありません。
ただし、人類が覚醒しガイアと一緒にアセンションすることが絶対必要条件ではあります。
その覚醒のエネルギーがガイアをアセンションに導くのです。
ですから不安や怒りや嫉妬などのネガティブなエネルギーに捉われている人が多ければ多いほど、その人たちが覚醒した時に生じるポジティブなエネルギーも高いわけです。
そして、ガイアが人類をのせずに単独でアセンションすることはあり得ません。
大津波や地震などでかつてのレムリアやアトランティスのように現代文明が海の底に沈むとしたら、その時には地球はアセンションに失敗し三次元にとどまることを意味します。
一部の人は、ノアの箱舟に乗ったり、月の裏側に逃げたり、宇宙船に助けられたりして、地球の災害が一段落し、きれいな自然を取り戻した状態になれば戻ってくるなどと言ってますが、そのような平行現実は永遠に存在し得ません。
我々人類は本来、地球の管理者でした。適切に環境を管理し、そしてそこで人類が調和がとれた状態であらゆることを体験し、人生を楽しむというのが我々が地球に転生してきた目的であったのです。
でも実際問題として我々がするべきことは何も変わりません。
一番大切なことは、まずしっかりとグラウンディング(地に足をつける)して生きるということです。仕事なら仕事を、家事なら家事を、勉強なら勉強を、きっちり行うべきです。
なぜなら、それらはあなたが自分を表現する大切な場であるからです。
フワフワ精神世界のことにかまけて、現実の世界を生きていないのであれば、大いに勘違いしていることを気づくべきでしょう。
その状態であなたがいつも幸せでいること、そしてあなたの家族も幸せでいること、それ以上にあなたが人類に対して出来ることは何もありません。
そのことこそ大いなる光を周りに発するのです。
ディクシャやセミナーワークは大変に有効ですが、それらはあくまでもあなたが輝くきっかけでありツールでしかありません。
どうかアセンションのスタンスを自分からガイアに移してください。
その前提で自らのアセンションに取り組んで頂きたいと思います。
以上、シャスタのアセンディッドマスターからの緊急のメッセージでした。
シャスタの風景
写真左上より、「シャスタクラブから見たシャスタとシャスティーナ」 右上「宿泊先のシャスタリゾートより両山を臨む」 左下「この角度から見ると二つの山が重なってまるで富士山のよう」 右下 「夕暮れのシャスタとシャスティーナ(といっても午後9時くらい)」
このホームページの存在意義
スピリチュアル系のホームページは数多く存在しますが、日記形式の部分は別としてメッセージが次々と更新される「シャングリラからの伝言」みたいなのはめずらしいのではないかと思います。
なぜこう頻繁に更新するかというと、もちろん私の頭の中にメッセージがすべて入っていて単にパソコンのキーを叩くのが面倒くさくなければ更新されるというのもあるのですが、本当はいつも言うように我々にはあまり時間がないというのが真相です。
このHPに関しては確か4年のリースを組んでいますが、その存在意義としては今年と来年が山場であり実際に2012年になればHPの更新などと言ってられない状況になっているかもしれません。
実際のところ何が起こるか想像もつかないのです。
今の間にできるだけ多くの人の意識を覚醒するための一助となるべく日々更新している現状です。
同じような活動をしている人は日本に限らず世界中たくさんいらっしゃいます。
これらほとんどの人は光のメッセンジャーとして人類と地球を救うために転生してきた魂達です。ただそのレベルも様々で、魂そのもののレベルというのじゃなく地球に生まれてきてから自分に起こったトラウマから本当に解放されていないために、どこか波動がおかしい人が少なくありません。
もちろん私もきっと人のことは言えないんでしょうが。あるヒーラーのセッションを受けたとしましょう。
そのセッション中クライアントを包むエネルギーはヒーラーが出すのではなく、ヒーラーを通して出される宇宙のエネルギーなので、いかにそのヒーラー自身が癒されてなくても関係ありません。
ただヒーラー自体の覚醒度(ワンネスへのめざめ)が上がれば上がるほど、ものすごいエネルギーが流れてきます。
でも、セッションが終わりヒーラー自身が私生活に戻った時に、本当に幸せにかつ、光を周りに放ちながら生活しているかというと、なかなかそんな人にはお目にかからないです。
私はよく本屋さんで精神世界のコーナーに立ち寄りますが、今は本当にアセンションや覚醒に関する本がたくさん出版されています。
面白そうな本はないかとパラパラと立ち読みするのですが、それらほとんどが非常に現世的な成功に焦点を当てていたり、私ですら難解でわかりづらかったり、 文章自体が読みづらかったり(西洋人の書いたものに多いです。訳者の技術的問題?)、非常に厳しい書き方がされていたり(「ひふみ神示」なんかそうです)していて、どれも少なくとも私にはイマイチなんですね。
そしてこれはHPの冒頭でも書いていますが、幸せについて多々書かれているのに明確に幸せについて定義したものがないという摩訶不思議な事実に遭遇します。
関西弁で「そんなアホな!」という状況です。
どう考えたっておかしいです。
定義と言うからには少なくとも数十文字で説明されていなければなりません。
よく「幸せは一人一人、形が違うから・・」と言われるのですが、それはまさにその通りで各人によって今世で体験しようとしていることが違うわけですから。
でもそういうことを言う人は、今言ったような意味では理解していないと思われます。
何を幸せと感じるかは個人の自由であるといっているのですが、それは間違っています。
あくまでも「幸せとは自分が生まれてきた目的に沿った道に今、自分がいると確信すること」であり、それ以外の定義はありません。
これは私が考えて言っていることではなく、そうだと宇宙から言われていることなのです。
ここを押さえていない限り、今ある幸せについて書かれている本はその存在自体がナンセンスになってしまいます。
斉藤一人さんってご存知ですか?
たくさん本を出してらっしゃいますが、彼の書いたものには根本的に大きな弱点があります。
なぜならほとんどの人は(知らない人は別として)彼が何年間か連続で納税額第一位で、その人が書いた成功や幸せに関する本であると認識して読むからです。
これね、お釈迦様の言ったとされることを守っても誰も幸せにならなかったのと同じです。
これは非常に重要なことで、なぜ一介の歯科医である私が「シャングリラからの伝言」を書いているのかという本質に迫る話なのですが、いいですか、もう特別な人が特別な言葉で語る時代は終わりました。
だってずっとそれをやってきてダメだったから今の現状があるわけでしょ。
これからは普通の人が普通の言葉で神の言葉を伝えるのです。
本を出版した昨年あたりから私には自分が光のメッセンジャーであるとの自覚がありました。
人類を地球を覚醒させるため降りてきた数多くのスターチルドレンの一人であると自覚しています。
そうでないと説明のつかないことがあまりにも多すぎるからです。
また先日シャスタクラブでハルミさんとヒデさんに受けたアセンションヒーリングで、最後まで心に引っかかっていたことも解消されました。
あとは周りにどう思われようがやりきるだけです。
だって、そのために生まれてきたのですから。
ただ一つ自分としては残念なことがあります。
それは私は今回アセンションに乗り遅れそうな落ちこぼれの人のお尻を押すために来たと思っていました。
最悪の場合私自身が三次元にとどまっても最後の最後まで誰かのお尻を押し続けようと考えていました。
でもシャスタで私のガイドからのメッセージとして言われたことは、「エネルギーの無駄遣いはやめなさい。そういう人たちは好んで三次元にとどまろうとしているのだから放っておきなさい」ということでした。
確かに最近、周りを見ていてそのことを痛感するのです。
いつでも今いる泥沼から抜け出せるのに、いっこうに抜け出そうとせず、苦しい苦しいと言いながらずっとそこに気持ちよさそうに浸かっている人が多いのです。
その人たちの心には残念ながら「シャングリラからの伝言」は届かないようです。
何度も繰り返しますが、最も大切なことは日々をしっかり幸せに生きるということです。
これは何も特別なことをするわけではありません。
毎日子供のお弁当を作りながら、玉ねぎを刻んで涙を流しながら、そのことを存分に楽しむということです。
私だってこんなメッセージばっかり書いてるわけじゃなくって、きちんと歯医者の仕事をしています。
そして仕事を楽しんでいます。
インプラントをしたり、入れ歯を作ったりという仕事の内容そのものもそうですが、そこで体験する患者さんとのあるいはスタッフとの人間関係が楽しいのです。
あなたがサラリーマンであるなら会社で上司に嫌味を言われた時に、そこから逃げずに、またどうしてあんなことを言うんだろうなどと理由を追求したりせずに、ただその瞬間を十分体験してください。
嫌味を言う上司をとことん体験しつくして、その時起きる感情を思いっきり味わってください。
ただそれだけです。
大丈夫です。必ずできます。
「シャングリラからの伝言」が誕生するまで
それはまだ”ならまちワンネス歯科”が”西塔歯科医院”だった頃、2007年の2月の末の頃です。
前の年から徐々に霊的な覚醒が始まった私はさまざまなメッセージをインスピレーションという形で受け取るようになっていました。
ある時、待合室の掲示板にありきたりの歯医者の啓蒙ポスターを貼っていてもつまらないと考えた私は、患者さんに向けて受け取ったメッセージをいらなくなったカレンダーの裏とかにマジックで手書きしていったのです。
第一回のメッセージは製薬会社が新聞に載せる、さも国民の健康を守りますと言わんばかりの広告についての告発のようなもので、ちょうどメタボリックシンドロームなる造語が日本中を席捲していた時でした。
そして、いつの間にかそのメッセージを「シャングリラからの伝言」と名付けていたのです。
その後、およそ1年の間に次々と更新していったメッセージは結局総集編を含めると45回にわたり、そこで一度終了したのですが、どうせなら本にしようと考え「シャングリラからの伝言~より良く人生を生きるために~」というタイトルで原稿をまとめ上げたのです。
それを精神世界系の出版社数社に送ったのですがことごとくボツでした。
内容には自信があったのですが、今は出版不況なので売れるかどうかわからない無名の著者のものは受けられない、というのが主な理由でした。
その後、原稿はそのまま放っておいたのですが、今度はメッセージを患者さんが持ち帰れるようにしようと考え、小冊子のような形でvol.1~13まで作りました。
なるべく宗教臭くなくメッセージだけを客観的に伝えたいと考え、作郎というカッパの人形に登場してもらい彼に語らせる形をとったのもこの時です。
今から考えると、最初に作った原稿はおもしろくはあるのですが 私個人の体験がたくさん盛り込まれており、私のことを知らない一般読者には確かに私小説的でもう一つであったと思います。
作郎のメッセージ集は何人かの人に熱い支持を受けましたので、こちらをきちんと本にしようと思い、自費出版という形ではありますが私と同じようにワンネスのために活動していらっしゃる出帆新社から無事刊行することができました。
自分で言うのもなんですが、この本は本当によくできていると思います。
一分の揺るぎもない出来の確かさです。
本書を作る時に最も気を使ったのが自分自身がきれいなフィルターに徹することでした。
つまり私自身の考えがそこに入りこまないように、受け取ったメッセージをなるべくそのままの形で、ただし読者に分かりやすく文字にしていくように努めました。
それと、誰も傷つけてはならないという点にも気を配り、読んだ人が自分自身を内省するのに役立ったとしても、傷つくようなキツイ書き方をしないよう心がけました。
でも本書の最後のあとがきだけは、私が書いたことにしてるんですが、やはりそこだけはエゴがありますねえ、文章の中に。
メッセージの合間にいくつかの詩や散文がはさまってるのですが、ほとんどが以前に書いたものでして、それがまるで初めから計算されていたかのように収まるべき所に収まったのには自分でも驚いています。
元来、私、詩なんか書く人間じゃないんです。
でも、なぜかしら必要な時にそれらしい詩が頭に浮かぶのですねえ、いやほんと不思議です。
より良く生きるための指針としては本の内容だけで十分なのですが、それ以外にも読むと面白い話がたくさんありますし、だいいちメッセージは次々と来るのでそれを発表する場としてホームページを立ち上げたわけです。
また同じ内容でも以前よりは深くかつわかりやすく説明できることもたくさんあります。
なるべくたくさんの人に読んでもらいたいと考えていますが、もしあなたが面白いと思われたら是非お知り合いの方にも勧めて頂きたいのです。
これは本当に心からお願いいたします。
我々は急がないと、もう崖っぷちまで来ているんです。
まずは一人一人が幸せになり、自分に対しても他人に対しても、また他のすべての生命に対しても思いやりに満ちた世界を一緒に作りましょう。