受容と教育と学習と

~5月7日投稿分より~

 

 うちでは、ある時から子供たちのことを極力全面的に受け入れ、 大人の考える良い子になるように、というような子育てを一切止めました。個性的であって良いし、少なくとも家族に対しては感情を抑えるようなことをせずに大爆発させてOK。すると、あれだけひどい怒鳴り合いの喧嘩をしていた子供たちが30分後には仲直りしている。ただし、お互いに相手のことを「こいつは、こういうヤツやわい」とは思っている(笑)
 これもある時、いかに僕が子供の心をわかってやっていないか、寄り添っていないかに気がついて、それ以来子ども達の考えや思い、どう感じたかなどをきちんと問うて聴くようにしました。元々、子供の方が大人より劣っているなどと微塵も思っておりません。
 そして先月、近くの公立中学に入学した長男(3番目の子供)が、数日間通った結果、僕に話があるということで次の如く申しました。
「お父さん、あのな、学校にいるとな、自分が自分でなくなっていく気がして、自分がわからんようになるねん。僕は結構明るい性格の方やと思うけど、教室で全然笑えんと座ってる自分がいてるねん」
 ああ、あなたもか・・・・
 長女は小学校を卒業するやいなや、将来は自給自足の生活をしたいから中学行かずにそういう所で学びたいと希望し、またそういう所が見つかって、3年間お世話になりました。次女はやはり早々に校門をくぐろうとすると息苦しくなって今は畑と勉強を少々。
 考えるに、今の学校教育というのは富国強兵策をそのまま引きずっていて、単に国に都合の良い人間を養成するという目的のためだけにあるのではなかろうか?国に都合が良いというのは簡潔にいうと、いかに金を稼いで納税してくれるかということです。教育という言葉もよく見れば、大人(体制)の傲慢さを表しているとも思えます。結局教育の先にあるものは金なので、そんなものが国民に幸福をもたらすわけがない。
 学校が悪いとか先生が馬鹿だとかいうわけではありません。システムの欠陥なので、そのシステムの中で育ってきた人が、それ以外の価値観の元では役に立たないのは当然であります。でも、現状の学校のシステムを維持する中で、いかに多くの子供の心を壊しているのかに全く気づかないのは如何なものか?とは思いますけど。家庭訪問の際に担任の先生に息子は僕に言ったことをそのまま伝えたのですよ。
 自分はありのままで価値があるのだ、という育てられ方をしてきた子供たちは、今の学校には馴染めないでしょう。逆にいうと、普通に通学している子供たちはどうなんでしょうね?ちなみにシュタイナーの学校は正式に認められていないので、普通に就職しようとしたならば、通常大検を受けないといけなくなります。
 学校には行かなくても良いけれど、勉強はやはり大切だよ、と子供たちに諭した話があります。(勉強というのもよくわからない言葉ですな) うちの3人の子ども達の夢は将来、3人で自給自足の生活をすること・・・・・
「仮にあなた達がそういう生活をしたとしても、自分たちだけの自己完結した暮らしは成り立たない。絶対に周囲の人とのかかわりを持たないとやっていけない。人は自分の考えや気持ちを表すのに様々な方法を用い、その方法を学んで表現したり、あるいは人の表現をくみ取ったりすることを学ぶために国語がある。そうやって周りの人とうまく関係性を保つのだ。それが外国人相手だと英語になるまでの話。 また、あなたたちは周りの社会ともかかわりを持たねばならない。そして個人にも社会にも歴史や育ってきた背景というものがあり、それらを理解しないことにはうまくかかわれない。だから社会科を学ぶのだ。 あなた達が自給自足をするならば、この大地や川、地球や太陽や月などとかかわらなければならない。だから理科が必要。 そして地球が宇宙の一部であるからには、宇宙の共通言語である数学を学ばねばならない。 これらのことによって、あなた達は全体性の中で創造的に生きていくことができるのだ。基礎なくして創造的ではあり得ない」
 
 この連休中に、福井にある自給自足を目指している”そういう所”に息子を預かってもらうため送り届けてきました。しかし、そこで我々家族の将来を左右するようなことに出会うとは思いもしなかったのでした  (つづく?)

2014.5.13

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