教育と賢者の石

~5月8日投稿分より~

福井の美山にある”そういう所”はその名を萌叡塾といいます。かつて都内でその名の進学塾をしていたことから来ています。今は塾ではありません。先日訪問した際にそこの塾長の谷崎さんは次のように申されました。「地元民はダメ!福井ってのは、日本で一番学校教育が厳しく学力テストでも上位なんだけど、それがダメにしている原因」
福井県民がダメかどうかは別にして、その言わんとするところは実によく理解できるのです。

僕は大阪教育大学の附属中・高を出ました。その中でも当時有名だった入江塾に通い、灘高や東大を目指していた友人たちは、とてもかなわない程頭が良かったです。その頭の良さは今思えば、記憶力と(与えられた)問題の解決能力です。大人になって高級官僚と会う機会がありましたが、やはりその頭の回転力はずば抜けていました。ただ、彼らと人生やこの世界について討論したことがないので、彼らの頭のよさがいかようなものかは判断しかねます。

その後、関西では京大と並んで賢いとされる大阪大学の歯学部に進学しましたが(たまたま新潟大学が数ⅡBまででよくなったり、地方大学に歯学部が新設されたりして阪大がエアポケットになって何とか潜り込めた)、そこで出会った人たちの中で「こいつ頭ええなぁ」と思うやつは一人もいませんでした。今もいません。

話がややこしいので一応、歯学部限定とさせてもらいます(笑) どういうことかというと、僕は自分では到底思いもつかないような独特の視点から見た風景(意見、考え)に触れたいわけです。しかしながら、受験勉強がよく出来たという条件を満たした人間は、常識的な視点しか持っておらず、話していて実につまらんのです。なぜなら、そのような視点は僕も持っているからで、相手の言うことは容易く理解できるし、コミュニケーションとってる意味も希薄に感じられるからです。大人になってからの頭が良いとは、ちょっと意味が違うのです。

>今の時代、真に頭の良い人間は未来を見ている。今起こっていることに対してどうすれば自分の安全を確保できるかなどとは考えない。本質的に何が問題なのか?それを解決するためには何が欠けているのか?どうすれば良いのかを考え、それに対しいかに効率的に実際に行動に移すか、を真剣に考える。
そこに自分も他人もありません。皆が幸せでなければナンセンスなんです。 与えられた問題を解くのではなく、何が問題かを自ら考え解決していく能力こそ、賢者の石なのでしょう。(ここは無理矢理の感あり、笑)

そして、そこにこそ今回生を受けた宇宙的な意味を見出すのです。

写真は件の萌叡塾。小学校卒業したてで、こんなとこに親元を離れて3年間も居た長女はすごいと、親の僕でも思います。

萌叡塾

萌叡塾

2014.5.13

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