このメッセージは今まで大切にしまってあったものです。
僕の最終兵器といってもいいでしょう。
「こどもの心」では色々と偉そうなことを書いていますが、「じゃあいったいお前のところの子育てはどうなんだ?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
それについてここではご説明します。
わたしを目覚めさせたもの
おそらく自営業という名のつくものを営んでいる人は多かれ少なかれそうじゃないかと思うのですが、結婚して最初に生まれてくる子供は男の子であって欲しいと心のどこかで考えています。
僕の場合、別に歯科医院を継いでくれとは思わないですが、それに大学院時代に嫌というほど動物実験をしましたので、とにかく無事で生まれてくれればそれでいい、とはいうものの、言われてみれば確かに心のどこかに男の子であってくれという願いはあったと思うのです。
そして案の定というか、最初に生まれてきたのは女の子でした。
生まれてみれば我が子ですから確かに可愛いわけです。
でも彼女はとにかくよく泣きました。
外食しても、どこかに泊まりに行ってもとにかくよく泣いたのです。
よく泣く理由
なぜ泣いたのか、理由は二つあります。
ひとつは、彼女を妊娠していた時、つまり結婚して間もない頃や彼女が生まれてからも、とにかく僕はよく妻を叱っていました。
今思えば男らしさを勘違いしていたのですが、すぐ手をあげるし人間性を否定するようなことまで言っていたと思います。
そして妻はとにかく僕に怒られないように、ビクビクしていました。
妻は広島出身ですから、いきなり大阪に嫁いできて周りに知人が誰もいない中での夫のそういった態度はいくら好きで結婚したといっても、さぞつらかったでしょう。
このような場合、子供は両親が別れるのではないか、自分の前からいなくなるのではないかと不安になり夜泣きをしたりしやすくなります。
長い間待って、ようやく会えたのに・・・。
よく泣く理由のふたつ目は、僕がとにかく行儀にうるさかったからです。
外で食事をしたりする時に、周りの人に迷惑をかけてはいけない、という観念が強かったのでとにかく良い子でいるようにさせることが最重要課題でした。
そして行儀のよい子の父親であることで、「やっぱり西塔さんところの子供は違うわ。躾がいきとどいてますね」と世間に認めてもらいたかったのです。
今考えれば、僕が行儀や躾にこだわったのには、僕の母親の影響が強かった気がします。
自分の分身が、愛せない父親
長女は名前を藍といいます。
僕たち夫婦が新婚旅行で泊まった信州の蓼科にある旅館の名前からいただきました。
藍が成長するにつれ可愛いさよりは、親の言うとおり出来ずに泣いてしまう彼女のことが段々嫌いになっていきました。
そして彼女が時折見せる人としての弱点のようなもの、意気地無しなところだったり、つい人の顔色を窺ったりするところなどが、自分が持っている自分の大嫌いなところそっくりで、腹が立つのです。
いつの間にか自分で自分の子供が、そして裏を返せば自分の分身が、愛せない父親になっていました。
次女誕生
そのうち次女のふうが生まれました。
またしても女の子だったわけですが、一風変わったその平仮名の名前は、漫画の「美味しんぼ」に出てくる喫茶店の名前からきています。
この子は生まれた時からとにかく頑固でした。怒られてもひるみませんでした。
怒られても目線をそらさず、僕の目をじっと見ながらまるで僕が親のエゴで怒っているのを見透かすようにするのです。
実はこの子が妻のお腹にいる時に僕はある事から人生で最大のピンチを迎えていました。
いまだにあの頃流行っていたモーニング娘の「ラブマシーン」を聞くと当時の独特の気分がよみがえってきます。
自分が何者か?存在する価値があるのか等、自分の根底がブレまくっていた時でした。
それで次女が生まれて来た日が平成11年11月1日です。
親が自分の位置(1)は何かを問われているんですよ、これ。
長男誕生
次に生まれたのは男の子でした。
妻は広島の病院で出産するので、男の子誕生の報を受けた僕はその夜一人で祝杯をあげに、奈良の行きつけの寿司屋さんにおじゃましました。
カウンターに座ってしばらくすると大将が「ハイ、お祝いっ!」と言って焼酎をおごってくれたのですが、そのグラスを受け取った瞬間、ずっと抑えていたものが抑えきれなくなって涙が次から次へとあふれてきました。
やはり僕は男の子が生まれるのを心のどこかで楽しみにしていたのです。
さて長男が生まれても僕の子供たちに接する態度は変わりません。
何事につけ口やかましく叱っていました。
そんなふうですから、子供たちは何かちょっと脱線したことを言ったり、したりした時に必ず僕の視線を気にするようになりました。
僕がそのことで烈火のごとく怒りだせば、首根っこをつかまれて押入れやトイレに閉じ込められるからです。
泣いてる我が子を引きずっていても、その頃はそれが躾だと思っていました。
僕は父と母が年取ってからの子供です。
母は後妻で西塔家に入りましたので、僕は兄や姉とも年齢がすごく離れていました。
小さい頃、友達やいとこ達と遊ぶことはありましたが、親兄弟に遊んでもらった記憶はほとんどありません。
まったく無いわけではないのですが、すごく少なかったと思います。
ですから、いざ自分に子供が出来ても僕は子供たちと遊ぶのが楽しくありませんでした。
正直言ってダルイのです。
だから休みの日などは僕は僕自身のことに時間を使っていました。
最後に生まれた長男のことは「子供の体質を決めるもの」の項でも書いています。
父親との接する時間が短かった僕は、自分も自分の息子に対してうまく父親として接することができませんでした。
そして息子はそんな僕にあまりなつかず妻にベッタリ甘えています。
長女は何かと言えばお父さんと一緒に〇〇すると言いますが、そんな長女が僕はその頃うっとうしかったのです。
最もひどかったのは、京都の公園で遊んでいた時に次女が見当たらなくなったので、長女に「お父さんとお母さんが探してくるから、お前はここを絶対に動かないように 」と言いつけて探した結果、次女は見つかったものの今度は長女がその場所を動いていてまた探すハメになったのです。
しばらく探していると、ある女性が泣いている長女を連れて来て下さいました。
その後僕は、言いつけを守らなかったことにブチ切れて「もう帰ろう」と車に乗り込み、後部座席にいる長女にボロクソに言ったのです。
「お前みたいなやつは、いまだかつて西塔家にはおらんかった!そんなやつはウチの子やない!」
・・・僕、このことだけはいつか娘に土下座して謝ろうと思ってるんですけど、ひどいですよね。
だって、彼女の生い立ちを考えてみてください。
自分は一人ぼっちになるんじゃないかと不安になって、言われたことなんてどこかに飛んでいきますよ、そりゃ。
長女は帰りの車の中で魂が抜けたように茫然とした顔をしていました。
泣くどころの話じゃなかったのです。
ここまで読まれていかがですか?
このホームページや著書を読まれて、もしかして僕のことを素晴らしい人だとか、悟ってるとか勘違いなさっている方がおられるかもしれません。
メッセージ自体はまぎれもない、そして一分の揺るぎもない本物です。
でも僕はあくまでもメッセンジャーであって、ただ単に皆さんに伝える役目を果たしているだけです。
その頃の実態は上に書いたとおりです。
ヒドイもんでしょ。
さあ、ここから話は佳境に入ってまいります。
長い話ですがもう少しお付き合いください。
成18年の2月2日
そんなすべてが手探りだった家庭の中で今から4年前の平成18年の2月2日に僕は44歳の誕生日を迎えました。
そしてその誕生日を迎えてからというもの、今まで感じたことがないような違和感をおぼえました。
2月2日で44歳というゾロ目が何か変な感じがしたのです。
アホな僕は「2とか4で数字が揃たら、少し前のパチンコなら持ち玉交換やな」とか思ってたんですが・・・。
そして月は明けて3月になり長女が8歳、次女が6歳、長男が4歳のある日のことです。
子供たちが三人並んで小冊子のようなものを渡してくれたのです。
まったく何の脈絡もありませんでした。
前後に何かイベントがあったわけではないのです。
これはショックでした。
頭を丸太で殴られたような感覚でした。
だって、読まれた通り僕は全然子供たちにやさしくありません。
それどころか、暴力とまではいきませんが、言うことを聞かない時には頭を叩いたり、押仕入れに閉じ込めたりしていたのです。
また言葉の上では暴力を振るっていたでしょう。
でも、でも僕の子供たちはこんな僕たち夫婦に「パパ、ママ、やさしい」「大好きだよ」と言ってくれたのです。
僕の妻だって、言うこと聞かない子供たちにキーキー怒ってたんですね。
「パパ、ママ、やさしい」「大好きだよ」
この言葉がすべてでした。
今、僕がこうしてあるのは本当に子供たちのおかげなのです。
ディクシャで目覚めたんじゃありません。
何かの本で気づいたのでもありません。
誰かの講演が本当の自分に立ち帰らせてくれたわけでもないのです。
すべて、愛を知らない鏡を演じてくれた子供たちのおかげです。
このことがあってから、いろんなことが変わっていきました。
様々な出会いやシンクロニシティがありました。
そして、今があります。
僕が「こどもの心」で偉そうに書いているのは、すべてこういったことが背景としてあるからです。
この小冊子は僕たち夫婦の宝物です。
もし自宅が火事になったら、真っ先にこの小冊子を持ちだすでしょう。
なぜなら、これは僕たちだけではなく、すべての親たちへのメッセージだと思うからです。
もうこれ以上誰の子供も傷ついて欲しくありません。
同じ過ちは人類全体として、しないようにできるはずでしょう。
自分の子供も、よその子供も関係ないじゃないですか。
みんな大切な未来を担う子供たちです。
この話の続き、「西塔家のその後」は近々、院長ブログ「カッパのサンポ」で公開予定。
わたしの子供たちへ
わたしの子供たちよ
こんなお父さんとお母さんの元に生まれてきてくれて 本当にありがとう
僕たち こんなに未熟なのに 選んでくれてありがとう
あなたたちが教えてくれた愛を いや、皆本当は愛を知っているんだということを
お父さんは自分なりに伝えていきたいと思います
お母さんはまた、違うやり方をするでしょう
あなたたちが携えてきたメッセージを 僕たちは確かに受け取りました
これからはお互いに本来の道で頑張りましょう
あなたたちは子供はもっと自由でいいということを 教えてあげてください
大人の強制から子供たちを解放してあげてください
僕たちは大人たち自身が捉われているものから 自らを解放できるように努力します
ありがとう 本当にありがとう
あなたたちが 親から真の愛情を注いでもらうべき時に
僕たちが未熟なために それができなかったことを 心から申し訳なく思います
だからこそ 次の世代には そうじゃない世界を作れるように
お互いに頑張りましょう
あなたたちは 僕たち夫婦の心からの誇りです