絶対性の世界 vs 相対性の世界
これも新潟でお話したこと。
本にも書いてあります。
目を閉じて、リンゴを一つ思い浮べようとしても、大きさが定まらない。
そこにミカンを一つ持ってくると、お互いの大きさの違いは生じますが、それでもリンゴはイメージの中で大きくなったり小さくなったりします。
その状態では絶対的な尺度がないから。
そこでバナナやパイナップルやキリンに象、原子からはては銀河に至るまでありとあらゆるものを無限に想像=創造しました。
そうしますってえと、なんとなくですけど一つ一つのものの大きさって決まってくるような気がしません?
あくまでも相対性の世界ですけどね。
さて、あなたはそこに物だけではなく、無限の事象(出来事)も創りました。
嫁と姑との葛藤、父親との軋轢、子供のことを愛せない、仕事における劣等感などなど・・・・
もちろん嬉しいこと楽しいことも創ったんですよ。
目を閉じた状態で、あなたの瞼の裏の向こう側にある、それらのあらゆるもの。
あなたはその事象の真っ只中にいるのでしょうか?
それともこちらからその事象を眺めているのでしょうか?
・・・・どちらの自分も同時に存在している、が正解。
向こう側は相対性の世界。
こちら側は絶対性の世界。
問題は視点をどこに持ってくるかということ。
この世界はこのようにして出来ましたので、どうしても相対つまり他人との比較に陥りやすいのです。
でもね、他人というのはあくまでも”自分を知るための尺度”でしかありません。
それがなければ自分の姿がわからないのです。
比較する必要はなくって、単に自分を知るための道具というところでしょうか。
そこに優劣はなく、損得もなく、善悪もありません。
比較すると違いに目がいきます。
同じになろうとしてしまいます。
あるいは違いを強調してやろうと思ってしまいます。
そうではないのですね。
あくまでも、あなたはあなたのまま。
そして、そんなあなたをただ見つめるだけ。
観察するだけなのです。
僕たちは小さい頃から比較の渦の中に放り込まれて育ってきましたから、いきなりありのままの自分を受け入れると言ってもなかなか難しく、どうしても他人と比較してしまいます。
であれば、自分の子供を、自分のつれ合いを、自分の友人を他とあるいは平均や標準や常識的に、というところと比較するのを止めてみては如何でしょう?
自分のことはできなくても、他人を比較するのを止めるのは心掛け次第で可能なんじゃないでしょうかね。
僕はより良く生きるための方法論などは大嫌いですが、これはありかも知れません。
そのうち自分のことを他人と比較しなくなるかもね。
さて、目を閉じて何も思考が働かない状態、すなわち無の意識の状態のとき・・・・般若心経の前半のくどくどした説明はそのことを述べています。
目を閉じれば即、宇宙創世前の状態かつ現在も裏で存在する絶対性の世界を体験できる。
誰でもこれが出来るってところが素敵だと思いませんか?
悟っているもへったくれもない、誰でも出来るんです。
多くの人がこの般若心経に対して私訳とか意訳(「わたしはこのように解釈したの、これって分かり易くない?」というとんでもない錯覚)で挑んでいます。
こういう人たちは、果たして本当に上のことがわかっているのだろうか?と思います。
後半は単に、このマントラが素晴らしいという大絶賛の嵐で退屈です。
で、さんざん訳の分かったような分からんような話を聞かされたあげく出てくるのが
”ガテーガテーパラガテー パラソーガテー ボジスヴァハ”
サンスクリット語です。
おまけにそれを音訳した”ぎゃていぎゃてい・・・”を唱えてるし、オメデタイにも程がある。
日本人にとって全くもって無意味なマントラです。
ですから多くの人は「すべては無であり(前半)、それが腑に落ちるととても気楽に過ごせるわよん(後半)」というところを、ああでもない、こうでもないと解釈するのですが、そもそも般若心経を頭で理解しようとするのが本末転倒だてぇの。
もののわかった師に導いてもらって瞑想したら一発でおます。
何度も繰り返しますが、般若心経を百万遍唱えようが写経しようが意味無しホーイチですから~。
明日からいよいよ古い世界、古い価値観が本格的に崩壊していき、新しい世界へと突入していきますよ。
あなたは他人に押されてそこへ行くのか?
それとも自ら進んでそこに入っていくのか?
どっち?
2012.11.30