精神世界やスピリチュアルなことに興味を持っている人、宗教関係者等の実に多くの人たちが悟りを求めています。
「いったい、いつになったら悟れるんだろう?」
そればかり考えている人も少なくありません。
そもそも悟りとは何でしょうか?
どうすれば悟れるのでしょうか?
これは幸せになるためには幸せの定義を知らなければならないのと同じことですね。
悟りは「差取り」とも言います。
つまりわたしとあなた、自分と他人という分離意識を取ることという説明の仕方です。
また右脳と左脳の同期化という説明もあります。
右脳は物事をイメージつまり概念化する場所です。
左脳は現在起こっていることを認識するところです。
多くの人間は(既成)概念を通して今の現実を見ています。
つまり過去の映像をダブらせているわけです。
これではどんな出来事もその新鮮さを失い、人生がつまらないものになってしまいますね。
事実、世界中のほとんどの人がそうやって人生を無駄にしているのです。
そんなことをしていると、自らの創造性を発揮するところがなくなります。
要するに予定調和というのが重要視されてしまうということです。
悟るとそのようなことがありません。
そのままのことを認識し、自分を自由に表現するようになるのです。
右脳と左脳の同期化というのは少し難しいのですが、お互いに独立した状態でそれらが本来の機能を果たすということです。
自分は自分。
他人は他人。
違うものだけど、それは全体の違う部分であるということ。
属している全体は同じで、かつ各部分同士の境界線は引けない。
これがもう少し意識状態が高くなると、違う部分というような認識もなくなります。
同じものが場所によって形を変えているだけというのが近いでしょうか。
つまり悟りとは意識の状態のことなのですが、それには段階があって浅い悟り状態から深い悟り状態まであるということです。
悟りの定義に関しては実のところいかようにしようとも、間違いようがないのでして、的が広すぎてどんな定義をしても外れようがないというのが本当のところです。
著書の方では「・・・至高の悟りとも言える状態を目指して、この世界のあらゆるものは進化していっている・・・」と書いています。
その通りなのですが、この悟りを目指すというのが曲者でして、本来我々というか万物すべて放っておいても勝手にそこに行きつくようになっているのです。
なのに悟ろうと努力してしまう人がいます。
厳しい修行をする人がいます。
違うんですよ。
悟りのために努力するということは、始発駅から電車に乗って、そのまま乗っていたら勝手に目的地の終点に着くのに、その途中でしょっちゅう時刻表なり路線図なりを見ているという状態です。
そうすると窓から見える景色の変化なんか目に入らないでしょう。
お解りいただけますでしょうか?
僕たちはその景色を楽しむために電車に乗って旅をしているのに・・・。
瞑想はいろんな意味で意識を高めるために有効な手段であります。
でも瞑想したから悟れるということは絶対にありません。
座禅や瞑想で一時的に右脳と左脳が同期化することがあります。
あくまでも一時的なものですが、禅寺の老師などはその状態を一瞬見て、「あなたは見性した(悟った)」と伝えたりします。
しかしその状態は持続しません。
どれだけ難しい公案に答えられようが、そんなものは頭で考えたもので、それが悟りのレベルを測るものではありはしないのです。
悟りの状態は、例えそれがどのような段階のものであったとしても、真我からあなたへプレゼントのように与えられるものなのです。
ですから、一度悟りを欲したならば、あとはその事は忘れて捨て置くことです。
そして毎日人生を楽しんでいれば、そのうち気がついたらそうなっています。
悟る最大のコツは悟ろうとしないこと。
よく悟ると人に怒ったり腹を立てたりしないと勘違いされるのですが、それは間違いです。
ただしこのHPのどこかに書きましたが、感情の起伏は少なくなります。
感情というのは人間どころかあらゆるものに備わった大切なエネルギーです。
それを楽しむために生きていると言っても過言ではありません。
ただし、よく見られるように怒りが怒りを呼ぶとか、悲しくなって泣いていたら昔のことを思い出してまた泣いてしまう、などということが無くなっていくのです。
感情はあくまでもその時だけのもの。
そしてそれは味わうためのもので、その原因となった人や物に八つ当たりするのはこれは感情の表現ではありません。
ですから聖者と呼ばれる人も、その内面では様々な感情が起こっています。
ただその味わい方、表現の仕方が我々が一般に考えているようなものではないということで、悟っていくと皆さんもそのようになっていきます。
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