ちょっとここらで人の気持ちを考えてみる、というのをやりましょう。
一般的に真実はひとつだと思われていますが、違いますねん、これが。
え~っと、量子力学の基本中の基本ですが、”あらゆる事象は観察者の影響を受ける”という事実があります。
分かりやすい例でお話しします。
今、わたしとあなたの間にリンゴを一つ置きます。
当然ですが見ている視点が違うので、厳密に言うと同じリンゴが二人には違って見えます。
では、わたしが素早く動いて奇跡的にもあなたの目があった場所にわたしの目がきたとしましょう。
でもどれだけ速く動こうが時間が経過しているので、わたしが今見ているリンゴは先ほどあなたが見ているリンゴと同じではありません。
少々ややこしいのですが、これをよく考えていくと、わたしがリンゴを見ているある時空間を所有している限り(わたしの目がある位置をとっている限り)、他の人はわたしとまったく同じようにリンゴを見ることは不可能なのです。
この考えを広げていくと、実は誰一人同じものを見た時に同じようには絶対に見えない、ということがわかります。
もっと言うと、同じものなど存在しないわけですね。
ではリンゴの真実はどこにあるでしょう?
つまり真実なんてものは視点の数だけあるのですね。
そしてリンゴをあらゆる視点から同時に見る、なんてことができるのは神様しかおらんのですよ。
今のは単に視点だけのお話でした。
では仮に、わたしとあなたの体を重ね合わせてまったく同じ時刻に同じ視点からリンゴを見ることができたとしましょう。
さて、同じように見えるでしょうか?
これはですね、二人のリンゴに対する今までの経験が違うからまたしても同じようには見えないのであります。
わたしはリンゴが大好物だけれど、あなたは大っ嫌いかもしれません。
もう同じようには見えないですよね。
先週近所の人にもらったリンゴがまずかった、むかしリンゴを食べすぎてお腹をこわしたことがある、等々。
一般的に人間はある出来事を体験する時に必ず過去の記憶をそこにかぶせてしまいますので、視点が同じでも見る人が違うと見え方が異なってくるわけです。
結局、誰も他人が見ているようには物事は見えないのだということを理解する必要があります。
(ちなみに覚醒した人間はそういうことがありません。すべての体験を新鮮なものとして味わうことができます)
我々は往々にして、どうしてあの人はああいう風に言うのだろう?この人はどうしてこんな態度をとるのだろう?と思っちゃいますよね。
同じ出来事に出会ったとしても人によって視点が違うし、それにまつわる経験だって違うわけです。
その際、その人が出来事から無意識のうちに自分を守る(正当化する)ために、出来事から逃げたり、他人を攻撃したり、無関心を装ったりするのです。
あなたが見ている真実はあなただけの真実です。
でもそれはその視点から見ればまさに正しい。
でも違う見方もまた然り。
究極の現実を理解するためには、視点は多ければ多いほど良いし、様々な経験をしている多種多様の人間がいた方がいいに決まっているのです。
結局、他人を否定しているところからは何も始まらないというお話でした。