世に言う勉強ができる子、その子が将来大手企業に就職する、あるいは医者や弁護士、官僚になる。
そしてそこで出世をしていき世間からも認められ、経済的なことも含めて非常に余裕のある暮らしをしている。
さあ、そういった人は現在でもたくさん存在するのですが、その人たちが幸せかというとそうではありません。
本当に幸せな人は周りを幸せにしていきます
今の社会はどうでしょう?
もしあなたが「いや、私は違う」というなら、それは例によって幸せの意味を誤って解釈しているか、自分自身をきちんと見ていないのです。
ということはね、勉強ができるということは全く世間のため社会のためにならないというか、関係ないということです。
まずね、この現状をしっかり認識する必要がありますよ。
あなたがどんな反論をしようとも、明治以降日本人が築き上げてきた社会の現状がすべてを物語っているのです。
読み書きソロバン
読み書きソロバンといいますが、確かにそれ位は強制してもいいかなとは思います。
ただね、元々人間はテレパシーでコミュニケーションしていたのです。
今でも進んだ文明の惑星ではそうなのです。
言葉というのは非常に便利なように思いますが逆に制約も多くて、例えばあなたは目の前のオーロラをそれを見ていない人にどのように伝えますか?
これテレパシーだと目で見ているイメージをそのまま相手の脳に送るので一発です。
数字というのも今のような経済では役立つでしょうが、自分がもらうものと相手に与えるものの価値を計ろうとするから算数が必要なのであって、相手が必要なだけ与えることが自分の歓びだという世界では無用の長物です。
他の自然科学もそうなのですが、元来起こっている現象に興味を持ってどうしてそうなるのだろうと考えた時に、初めて調べてみたいとなるわけですね。
まずは観察ありきなのです。
それを今は〇〇の法則とか公式とかを覚えるところから入っていきます。
そんなもの面白いはずがないでしょう。
医学部でも歯学部でもそうなのですが、教養課程が終わればまず基礎医学から入ります。
解剖学とか生化学とか細菌学とかですね。
普通は、そんなの当然でしょと思いますよね。
でももし、これを臨床の現場を様々な角度から見学するというところから入るとどうでしょう?
まず手術や医師が診断、治療をしているところ、看護の実地を観察するのです。
すると本来その道に進むべき人は当然興味を抱くでしょう。
ここで興味を抱かないのであれば医学部に入学したこと自体が間違っていたのです。
興味を抱くとその根底をなしている基礎医学を勉強したいと思うのは当然の成り行きです。
つまり今の教育システムはすべて順序が逆転しているのです。
現象を観察して興味を抱くから学習する、というのが本来で、その時に知りたいことを学べる手助けをするのが教育です。
一方的に知識を詰め込むのは教育ではありません。
私は大学院を出ているので歯学博士なのですが、歯科の専門的な知識は別としてそれ以外の小中高大と勉強してきたことは一切役に立っていませんし、必要もありませんでした。
唯一英語だけはまあ役に立ってるともいえますが。
だって、因数分解とか行列とかそれが専門の人はともかく、社会人になってどこで出てきます?
いらないでしょう、そんなもの。
数学というのはこの宇宙のある一面のすごく面白いところを表しています。
であるならば、子供に提示する時に今とは違ったやり方があるはずなのです。
世界中で戦争がなくならないのも差別がなくならないのも歴史を教えるからです。
もしね、歴史を全く教えなければ今の日本と中国や韓国のような関係は起こり得ないのです。
不幸にして争いがあった大人たちはその記憶を封印して、次の世代の子供たちには新たな関係を築くように努力すべきでしょう。
差別のことを子供に教えなければ子供たちは人を差別するということを知り得ません。
それが何かということが全く分からないのです。
大人が教えるから人を差別して自分が優位に立つなんてことをするようになるのです。
じゃあ勉強って何のためにあるのでしょう?
はっきり言います。
今の勉強は大学や会社が学生を選抜するための道具でしかありません。
そのために小学校の時から面白くもないことを強制されているのです。
小学校なんてその上に美味しくもない給食をこれまた強制的に食べさせられるんですから、そりゃ学校に行きたくもなくなるというものです。
通知簿を見てごらんなさい。
評価の項目に”興味を持って学習している”なんてのがあったりします。
“その子が何に興味を持っているか?”ということには全然興味がもたれません。
そんなアホな!!
え?
勉強もしない奴が医者になんかなってもらったら困るって?
いえ、そういうふうにはなりません。
ただ医学部の入学の時点でくだらない選抜などしないというだけの話です。
まず何をやりたいか、何になりたいかという希望が優先されます。
そして医学部であればまず医療の現場を見学し興味を抱けばそこから先へ進みます。
あんなふうになりたいと思うのであれば、それに必要なことは興味を持って学習されるでしょう。
最終的に国家試験で未だ免許を与えるに至らずと判断されれば、再度挑戦するか別の道を選ぶかすればよいのです。
ん?
そんなシステムだと社会の底辺を支えるような仕事につく人間がいなくなるじゃないかって?
う~ん、何をもって社会の底辺と言ってるのかわかりませんが、例えば私が生まれ育った大阪市東成区というところは小さな工場がたくさんあるところです。
私は幼い頃から休みの日でも関係なくネジ工場や鉄筋の工場で働く男の人を見て育ちました。
でも私はそこで働く人たちが医者や歯医者に劣るなんてこれっぽっちも思いません、思う人は思うでしょうけど・・・。
まあ、そうやって生まれた医者の方が今よりよっぽどマシだと思うのですね。
私の医者の定義
私、時々辛辣なことを書きますが私の医者の定義は次のようなものです。
”非常に記憶力に優れている人。そしてある枠組みの中では優れた理解力を示すが、その枠組みからはずれるとその理解力は全く用をなさない”
私の兄は股関節の領域ではそれと知られた整形外科医です。
また大学のサークルの先輩にも優秀なお医者さんが何人もいらっしゃいます。
それでも上の定義は変わりません。
というより、これ以上医者の実態を正確に表している言葉はないだろうとさえ思うのです。
そろそろ核心です。
勉強なんてまったく必要ありません。
でも何かになりたい、何かの資格を取りたいと思えば当然新しい知識や技術を覚えなければなりません。
大切なことは自分がやりたいこと、楽しいことのためにそれを身につけるのだということです。
学び、習う、これこそが人が一生絶対にやり続けることなのですよ。
この文章と「12歳の決断」のところを印刷して校長先生に見せてごらんなさい、
きっと狂ったように反論してくるから(笑)