かつてこんなことがありました。
今の場所へ引越しする前のことです。
子供たちが学校から帰ってくると、すごい勢いで文句を言ってきます。
「お母さん、もう〇〇ちゃんのお母さんイヤや!うちらのこと無視すんねんで!」
子供たちが通う学校では小さなグループで登校の時は集団登校するのですが、下校時はグループごとに親が交代で付き添いをすることになっていました。
うちの子供たちの言うところによると、その日の付き添い当番だったA子ちゃんのお母さんが自分の子供ばかりかまって他の子たち、特にうちの娘たちには非常に冷たく、まるで無視するように接するので、すごく腹が立つということでした。
その時僕は一通り話を聞いた後、そのお母さんは本当はすごく寂しい人だから実は可哀想なのはその人自身なんだ、だからそのお母さんとA子ちゃんのために祈ってあげなさい、と言いました。
正直言ってその頃の子供たちには難しすぎる話だし、後から妻に聞くところによると「何でそんなことせなあかんのん!?」とブーブー言ってたそうです。
子供の問題は親の問題
確かにそりゃそうですよね。
それでも僕はそう言ったので良かったと思っています。(こちらの詩をご覧ください)
僕はその頃公団に住んでいましたが、その周辺は奈良では高級住宅地と言われているところです。
駅前には塾が乱立し、終電近くなっても塾帰りの小学生を見かけるし、公団の周りでは迎えに来た親が路上駐車をして子供を待っていました。
そして僕の知る限り、このA子ちゃんのお母さんのような人は少なくないのです。
その街は見た目とは裏腹に非常に病んだ街だという印象でした。
いつも申しますように、子供の問題というのは起こっていることは確かに子供の問題なのだけれど、その原因は親でしかあり得ません。
いくら言ってもこれがわかってもらえません。
子供はその問題を提示することによって、親が本質的にもっている捉われを教えてくれているのです。
これが唯一絶対の真実です。
こういうと、「わたしの育て方が悪かったのかしら」となるのですが、違うんです。
ただ単に親が原因だと言っているだけで、良い悪いを言っているのではありません。
ですから、子供さんが問題を抱えてそれを通して親が自分自身を見つめる、このことが必要だから起こっている話でして、それで完璧なのですよ。
最初から問題のない子育てをすることが良いわけではないのです。
それらの体験を通して家族が成長していく、人生の真実に目覚めていく、その過程が非常に大切なのだということです。
そして本当のあなたの姿と、今現実のあなたの姿とをうまくつなぎとめる、そのカスガイの役目を果たしにあなたのお子さんはやって来たのですよ。
引きこもりの理由
引きこもりになったのには、そうなった理由があります。
しかし自分の子供が引きこもりになった時に、どうすればそれを解決できるか、どうすれば社会復帰できるか、そればかりが話題になります。
どの親も、学校も、会社も、もひとつおまけに児童心理学などを学んだ評論家たちも、それが本当は自分の内面の問題なのだと考えません。
これではいつまでたっても、根本的な解決は得られないでしょう。
引きこもりの人は確かに社会的には全く生産性がありませんし、そういう意味において役に立っていないと言えばそうでしょう。
しかし、その人が引きこもりであることにより、そのことを気にかけて何とかしようという人たちがいるのも事実です。
親にしてみれば自分の子供が引きこもりだという、世間に対して恥ずかしいような、また親としての責任を感じるような独特の感情を味わうわけです。
当の本人にしたって、何とかしようと思うんだけれど出来ないジレンマと焦燥感、あるいは「もうどうだっていいや」みたいな諦めの感覚など、引きこもりになることによって様々な感情を体験します。
つまりね、これだってりっぱな家族のひとつの体験なのですよ。
その子はその体験の核になっているに過ぎません。
というよりその子が引きこもりであるがゆえに、家族や周りの社会がそこに引きこもりの子がいるという体験をすることが可能になるのです。
こう考えると、引きこもりは悪いことでしょうか?
恥ずかしいことでしょうか?
その子は社会に必要がないのでしょうか?
どう思われます?
でも、40歳にも50歳にもなって仕事もせずに家でゲームばかりしているのは心配なのはよくわかります。
「何とかしなければ」という気持ちもわかりますし、第一経済的にいつまでも養ってられないという現実もあるでしょう。
それでもあえて申し上げます。
そこにとどまって下さい。
戦ったらダメです。
逃げてもいけません。
その引きこもりという体験を家族全員でとことん味わいつくしてください。
いいじゃないですか、それだけで今回の人生が終わってしまっても。
あなたはいつだって再生できるんだから・・・。