石舞台の桜.jpg

今年は桜の開花が早いですが、皆さんはもう花見はされたでしょうか?

僕は先週に嫁さんと石舞台へ行ってきました。

菜の花の黄色と桜の花の色が明日香の独特の空気に浮かんでいて、とても素敵でした。

写真中央に小さいけど石舞台古墳が見えます。

橘寺.jpg

その後寄った聖徳太子生誕の地と言われている橘寺もすごく落ち着ける場所で、久しぶりに良いお寺だなぁと感じ入った次第です。

 

昨日の朝、布団の中でふと、加治将一氏の名刺に書かれていたセラピストという肩書を思い起こし、”シャングリラ・セラピー”なるものを思いつきました。

一種の誘導瞑想みたいなものですが、ただその動画を見ているだけ、聞いているだけで癒される、自分がここに何をしに来たのかがわかる、そして何も間違っていないのだということが腑に落ちる、という代物で、YOU TUBE にアップして誰でも無料で視聴できる。。。。てなものを気が向いたらそのうち作ります。

ナレーションは標準語でしゃべる僕・・・・

 

さて、本日のテーマ、、、というよりある意味、究極のテーマかもしれませんが

「いくらなんでも、こんな人生なんて選ぶはずがない!」

「こんな体験したいわけがない!」

「その体験を通して幸せなど感じられるかっ!」

というのがあります。

実にもっともな感想です。

 

人は往々にして自分が出来ごとの被害者になってしまいます。

親や社会の犠牲者になってしまいます。

なってしまうというのは、自分でそのように捉えてしまうという意味です。

いつも言いますように、僕たちは物事の原因となるべきであって結果となってはいけないのです。

 

さて、ここでサイドメニューにある「アイ(愛)のかたち」に書かれていることを思い出してみましょう。

そこでの要旨は愛に満ち溢れている愛もあるけれど、愛がまるごと欠けている(ようにみえる)のもひとつの愛の形であるということでした。

中身が詰まっていても、中身が空洞でも、その外形はハート(愛)であるということです。

 

例えば親に十分愛されなかった、自分は必要のない子供であったというトラウマを持つ人がいるとしましょう。

その人の人生は推して知るべしですが、ここで彼・彼女が体験したいことは”親に愛されないという人生がどんなものか?”ではありません。

いや、それは確かにそうなのですが、それだと非常に低いレベルの理解となってしまうのです(ついこの間まで僕はそうだった)

この場合の親は言うまでもなく空っぽのハートを持っています。

それは自分の親からも愛されなかったと思っているからなのですが、ここではそこまで遡らずにおいておきます。

そしてその親の子供である自分自身も空っぽのハートを持っており、そこを埋めてくれるものを”外側に”求めます。

一見、自分の心の隙間を埋めてくれそうな物や人に出会いますが、結局はうまくいきません。

で、ひたすら人生を彷徨うようになります。

なぜか?

 

僕たちはあらゆる体験を通して自分自身を深く知るためにここにいます。

僕たちの本質は愛でした。

そして愛とはすべてのものであり、愛でないものは存在しません。

ただ、”いわゆる”愛のの中にどっぷりつかっていては愛が何か体験的にわからないので、対極のもの、つまり愛の欠如というものを持ってこざるを得ないのです。

それでもなお、僕たちの本質は愛なのです。

 

いま、親に愛されなかった彼・彼女がいます。

親も子供も空っぽのハートを持っています。

僕たちがするべき(したかった)体験は、あらゆる形の愛を体験的に知ること。

今回であれば、子供を愛せなかった親、その親に育てられて自分も愛が何か分からない子供、そのポッカリ空いたハートのピースを一つずつ埋めていく作業が、実は人生を生きるということなのですな、これが。

 

愛がないのに、空のハートを埋めていけるのか?

大丈夫です。

だって、愛がないのではなく、愛がないように思いこんでいるだけだから。

これがトラウマの本質であって、これがあるからハートを埋めるなどという作業が出来るのであり、トラウマからの解放というのはそのことに気づくことを意味します。

ここを勘違いしている人が実に多い気がします。

 

親のハートを埋めていくというのは、すなわち許しと同義です。

そのままの親を受け入れるということです。

そうすることで、自分の中に愛を見つけることができます。

自分の中に愛があるということを見つけるわけですから、結果的に自分のハートも充たされていきます。

また、先に自分の中のハートを埋めていき、結果的に親を愛せる(許せる)ようになる場合も当然あります。

 

ということで、人生とはあらゆる体験に相応する許し、癒し、つまりはいろんな形の愛を自分の中に見つける旅、なのでしょう。

でね、ここがポイントなのですが、決してあせらないこと。

いきなりすべての愛を自分の中に見つけることは不可能です。

それだと、この宇宙のゲームがすぐ終わってしまうから。

終わらないように”進化”という概念があり、”時間”という幻想が設定されているのです。

今回体験できなかった愛、見つけられなかった愛は、次の人生でどこかの星でやるようになってるのね。

それが曲げようのない宇宙の絶対法則であります。

だから焦んないで。

 

どうですか?

僕はこのメッセージは相当なものだと思ってるんですけど、嫁さんにはそれがどうした?くらいの感じで言われました(結構ヘコむ)

こう考えてくると、個人的なセッションを受けて自分の思いや捉われをどうこうしようってのは果たして必要でしょうか?

また、自分を愛して、自分を許して、でないと人生うまくいかないわよ、ってのもどうなんでしょうね。

だって、それが原因で人生がうまくいかないのではなくて、それが人生の目的なんだもの。

だからうまくいかないのが当然なので、それで良いんじゃないの。

 

著書の方には非常に簡潔に核心が書かれていますが、その当時の僕にはここまで深く説明する頭も経験もありませんでした。

先月になってようやくこの智慧が降りてきて、ああ、本に書いたことの裏にはこういう深い話が隠されていたのだ、と自分で納得する始末です。

もし、このことを本当に腑に落としたら、どのようなスピリチュアル・セミナーも、セッションも実は不要であるということがわかるし、パワースポット巡りなど性質の悪い冗談でしかなく、魂の故郷を巡る旅なんて何を言ってんだい?って話です。

 

僕たちは今、ここで、自分の中に愛をみつける旅をしているのであって、それ以外ではあり得ないと思うのです。

 

で、告知です。

お知らせ欄にも書いておりますが、ならまちワンネス歯科では現在、歯科衛生士を募集しております。

パートでも常勤でも構いません。

もしご希望の方がいらっしゃれば、メールあるいは電話でお問い合わせください。

お知り合いの方でそういった方がいらっしゃればご紹介ください。

当院の特徴といいますか、目的とするところは、突き詰めて言えばお口の健康でも身体の健康でもありはしません。

それはまぎれもなく、ここに書いているように、歯科医療を通して皆が愛を発見できるようにという願いの元に仕事をしている点であります。

でも、普通の歯医者よ、表面上は。

2013.4.3