願いと祈り

新年明けましておめでとうございます。

〆縄2014

いや~、2ヶ月のご無沙汰でした。

普通はこれだけ更新があいてると、「お身体大丈夫ですか?」みたいな心配メールが来るかと思いきや、そんなん一切無しでさみし~っ!

11月の一人旅から帰ってからというもの、なんやかんやとバタバタで、ブログ書く気も起きない状態。

久しぶりにキーを叩いているとめちゃくちゃ違和感あるね。

書くことがないのかと言われるとそんなこともなかったのですが、とにかく自分のこと、仕事のことで精一杯で余裕が全然なかったのだけれど、裏を返せばそれだけ集中して生きていたということでして、それはそれで誠に結構なことだったりもします。

 

前にも言ったかと思いますが、ある程度精神世界をやってくと、翻って現実の世界に集中するようになるのであります。

スピ系のセミナーなんぞ今さら気持ち悪くって”オエッ”って感じ(笑)

少なくとも地球人はこんな感じで存在しているわけですから、精神性や霊性の追求というのはやり過ぎると脇が甘くなってしまい社会性の欠如に陥りかねません。

やはり仕事というのがあるのはよろしいわけです。

そこで自己表現・創造が出来ますから。

進化や成長が確認しやすいですし。

 

なんやかんや言いながら、はや2014年になってしまいました。

で、世界はどうなっているかというと相変わらず混沌。

日本はどうかというと getting worse!

いや、マジでやばいよ、日本。

 

嫁さんに言われて気づきましたが、昨年末はテレビで忠臣蔵をほとんどやらなかった気がしませんか?

調べてないのでわかりませんが、もしかしてゼロ?

(そういや今年のうちの御屠蘇に使う日本酒は、お歳暮に頂いた愛知の”義侠”でした)

これがなにを意味するのかピンときますか?

原作はあれだけの名作なのに、テレビでほとんどCMが流せない状況となってしまった12月末封切りだった映画「永遠の0」

安倍首相が(どうしてこのタイミングで?)靖国参拝して、韓国に送った銃弾が返されるという話になり、アメリカも懸念を示すだって。

facebookでは猪瀬氏がボロクソに書かれ、僕はあれはハメられたのだと言うと、あの退職金はないだろうという返事が返ってくる。

そんなもん退職金を無理にでも出した方が猪瀬氏が益々イメージ悪くなるからに決まってるのに、そんなことすらわからない。

マスコミの報道は加工されていますから信ずるに足りません。

議会での答弁だって継ぎ接ぎに編集されていますからね。

恐くてあまり書けないけど、それと同じタイミングで餃子の王将の社長が殺されたのも無関係とは考えづらい。

なんか、知らず知らずのうちに洗脳され、マインドコントロールされている気がしませんか?

マスコミを本当に動かしているのは日本人じゃないからね。

危ないよ、日本。

仲井真知事が県民を裏切ったのなら、リコールすればいいじゃないかと僕は思う。

 

さて、僕が精神世界に足をつっこんだ7年前のお正月から、初詣では個人的な願い事もゼロとは言いませんが、必ずもっと大きなことの元に自分の願い事をくっつけたものです。

つまりは世界のために、うちの小さな歯科医院が繁栄するように。

ここで言う繁栄とは、当方のコンセプトに共鳴する人が集まってくれて、その人たちからも発信してもらい、かつ経営が安定するようにという意味です。

最近ではこっちも偉そうになってきて、昨年のお礼と今年の抱負を述べ、「まあ一緒に頑張ろや。俺もやるけど、神さん(春日の神のこと)、おまえもな」 的な・・・・

これもかつて書きましたが、多くの人はすっくない賽銭で、めちゃくちゃ大きな、それも自分の為だけの願い事をしとる。

ド厚かましいにも程があるっちゅうねん。

大人がそれですから、子供も当然そうなります。

金が入れば良い、受験に受かれば良い、etc.

本来は身についた穢れ(我のことね)を祓い、新しい綺麗な気をもらう機会なのに、穢れの2乗になって帰っていきよる。

無明とはこのことですな。

 

僕にマヤの叡智を伝えて下さっている柳瀬宏秀氏も、同じことをおっしゃっており、元バリバリの電通マンですから僕よりはるかに大きな規模でより太い人脈で次のことを広めようとしておられます。

”初詣の願いを祈りに”

元来、願いも祈りも同義の言葉ですが、ここでは願いとは個人的なエゴ満載のものをさしています。

祈りとは神の”意”に乗ることだそうです。

つまりは、自分が生まれてきた目的に沿う生き方をする、それを助けてくださいという意味ですね。

幸せ=仕合わせ でした。

神と人間がお互いに仕え合っている状態。

いったい僕たちはこの世界にどのような形で仕えることができるのだろうか、ちゅうこってす。

御縁がありますようにと5円玉だけ放り込んで 「神様、今年こそ良い人と巡り会えますように・・・」

帰って餅喰うて、屁ぇこいて寝てくれへん?  みたいな(笑)。

 

元日の朝は非常に清清しい空気ですが、実を言いますと、うちなんかでしたら春日大社に歩いて行くわけですが、参道歩いていてカラ揚げとかイカ焼きとかの匂いがしてきた時点で、えら穢れやいう話です。

本殿の周囲なんて最低のエネルギーですよって。

それはね、皆の自分さえ良ければ的な思いが莫大な量集まりましてね、それに引き寄せられて低級霊がうじゃうじゃと・・・・・。

いや、ホンマの話でっせ。

もひとつ言うとくと神社側も金勘定してますさかい話にも何にもなりませんわな。

全国で20数社が柳瀬氏の”初詣の願いを祈りに”に賛同されたそうです。

僕は、呼びかけたのに応えなかった神社を公表したれ!と思いますけど(笑)

 

初詣に行くと神社の神聖な祠を写メに撮ってる人が少なくありません。

これがどれだけ失礼なことかわかっているのでしょうか。

いい年した大人もやってるからどうしようもない。

たまに御神体が見えるように開帳している祠があります。

その時、祠の入り口正面に邪気や魔物が入って来ないように凸面鏡が置いてあったりします。

そしてそこに映るのは自分の姿。

それを写メ撮ってるというのが、どれだけ愚かな行為か分かりますか?

 

今は神棚を置く家は少なくなりました。

うちにもありません。

ただ心の中には当然あります。

子供が悪さをした時に「お天道さんが見てるよ」という親はもはや天然記念物。

「甘いもん食べたら虫歯になるよ」ですら明らかに悪意のあるスイーツブームのお陰で風前の灯。

砂糖は今のような使われ方においては、心身両方に対して毒でしかありません。

砂糖は脳の栄養源などとホザく輩の言うことなど聞いてはいけません。

 

お節料理は買うもの?

そのうちお節料理自体も消え去るかもしれない。

ここだけは家族や来客に対する願い、健康で長生きしてお金に困らず良い人生を送る、というのが込められて良いのです。

それを神様に捧げ、そのお下がりを頂く。

「そんなもん、お節作るのどんだけ大変かわかってんの?」 と言う人がいます。

あのね、それだけの願い事を込めるんやから大変なの当たり前やと思いませんか?

あなた、それ結局小銭で大きな願い事するんと一緒だっせ。

お節料理を拵えるのに、手間暇がかかるのが ”ダメ”  という考えが幼稚やねんって。

ま、今の時代、どこまで手作りするかは人それぞれでしょうけれど、根本のところがわかってなければ、日本人の心が伝承されない。

 

もう僕たちの子供の世代では女性がお節を作れなくなっているかもしれません。

おせち

藍とふうさんは作るやろうけど。

僕思うのね、団塊の世代と呼ばれる人たちの日本文化を伝える意味での無責任さと手抜き加減はひどいよ。

それで文句ばっかり言うてるか、現実逃避して沖縄や海外に移住だってさ。

きちんとやったことの、あるいはやらなかったことの責任取ってから引退してくれっちゅうねん(プンプン!)

仕方がないから僕は正月早々辛辣な文章を書いとるわけです。

手作りコンニャクや蒲鉾の旨さったらないよ。

「今年は棒だら上手いこと炊けた」 なんて言葉も死語なんですかねぇ。

一人旅の顛末は近日公開!

皆さまのこの一年のご健康とご多幸と、宇宙の叡智とともにあらんことを心からお祈り申し上げます。

2014.1.2

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