心に刺さった棘
一昨日は、飲みに行ったまでは予定通りでしたが、なかなか帰ってこなかったのは予定外でした(笑)
今週ある方の遠隔ディクシャが終わりました。
今回は週一回×4というやり方で、毎日やるよりはやはりこっちの方が良いよなぁと思った次第。
合宿で缶詰になってるならともかく、日常生活送りながらであれば週一が望ましい気がします。
一回受けてそれから一週間の間に自分に起こることや、その時の自分自身を深く見つめていく。
そういったゆったりとしたスタンスがいいのでしょう。
週一回ですと、さすがに僕はその日はお酒を飲みませんので、遠隔ディクシャをしながら自分自身にもディクシャエネルギーがきれいに入ってきます。
毎日誰かの遠隔引き受けてたら、こりゃお酒やめれるね(笑)
こういうこと言うのもなんですが、だいたいがディクシャギバーしかディクシャが出来ないということはありません。
ギバーになるために養成セミナーを受けなければならないというのもおかしな話なのです。
もしそうなのならヒーリングだってセミナーを受けないと出来ないということになります。
本当は誰だって気づいていないだけでヒーラーですからね。
joyヒーリングでは以前は30分ほどのイニシエーションをやっていましたが、現在では少なくともケビンがやる分に関してはかなり簡略化されているはずです。
それはケビンのエネルギーが高くなったから、それで十分なのだという説明のされ方をします。
インドの21日間コースで受けたイニシエーションのディクシャも正直言って「これだけのことでディクシャが出来るようになるの?」といった類のものでした。
要するにね、イニシエーションとはいかに確信させるかだけのものなのです。
受けた方が「ああ、これでわたしもギバーになった」と思いやすいですから。
そのためにあえて神聖な雰囲気を演出し、特別な儀式のようなことをするのです。
ま、それもありと言えばありなんですけどね。
ここで初めて告白しますが、僕は初めてディクシャを受けるより前にヒーラー養成セミナーを受けました。
その時点から妻の頭に手を置くと、なんだかわからないけどディクシャのようなエネルギーが流れるようになっていました。
それがディクシャのエネルギーなのか、ヒーリングのエネルギーなのかなんてわかりません。
そういうことを言えば、今やってるディクシャだってそれが本当にディクシャのエネルギーなのかどうかなんてバガヴァンにだってわからないし証明のしようがないのです。
そんなことはどうだっていいでしょう?
結果がどうなのか?が問題なのだから。
以前に遠隔ディクシャについて説明しましたが、要するに起こっていることの核心はすべてクライアントとクライアントの内なる神、あるいは宇宙との間で行われているのであって、ギバーはあくまでもそのキッカケを与えているだけです。
であるならば、ディクシャのエネルギーはすべてバガヴァンを通じて流れているというのもなんだか傲慢な気がします。
僕が先日4回にわたる遠隔ディクシャを終了した方にお伝えしたのは、もうこれからはこんなの必要ないですよ、ということ。
あとは瞑想するなり何なりして、自分で好きな時に宇宙や内なる神とつながればよろしい。
誰だって出来ます、そんなこと。
出来ると思わないから出来ないので、そこで僕が後押しているのです。
出来ますよって。
ただここで注意すべきことがあります。
ディクシャを受けると(別にディクシャに限らないのですが)まず何が起こるかというと、自分の本当の姿を見せつけられます。
自分の位置を確認するという、大原則通りです。
その時に自分の中のドロドロしたもの、まるでヘドロとでも言うべき汚い心の汚泥、ずっと何となくは気づいていたけど隠し通してきたもの、それらがいきなり噴出することがあります。
人によれば気が狂うような感じになることだってあるでしょう。
ディクシャが危険だと言われるのは、そういうことがあるからです。
例えば僕であればメールなり電話なりできちんとフォローできますが、ケビンや金城さんのような偉い人になってしまうと直接悩みのやり取りがしづらいわけです。
ましてやバガヴァンによるスカイプディクシャなら言わずもがな。
また、フォローしようにもそもそもギバーがそのレベルにないことも少なくないんじゃないでしょうか。
エネルギーワークを主催する人は、何かあった時にきちんと対応できないといけません。
面白おかしくエネルギーを弄んじゃ、とんでもないしっぺ返しがきますよということです。
これが個人的に瞑想するくらいであれば問題起きないのね。
ディクシャには教え(宇宙の理)を身体に浸透しやすくするという役割もあります。
ディクシャの後のフォローもそうなんだけど、単にディクシャして、ハイ終わりじゃあ、じぇんじぇんダメなのね。
以下は遠隔ディクシャが終了した方へ送ったメールの中からの抜粋です。
その方と友人との人間関係について言及したものです。
「人の本体はすべからく常に変化しながら進化し続けている生命体です。
すべての人が進化のプロセスにあるのです。
プロセスのどの位置にあるかは人により違います。
しかし、そのお友達も実は形を変えた自分、自分と違った位置にいる自分なのです。
親である創造主から見れば、どれも自分の子供です。
小学生の末っ子が大学生のお兄ちゃんより劣っているということではありません。
そういう意味において、他人を観察するのは自分を観察することですから役立ちます。
でも他人を批判するのは自分を批判することになり、よろしくありません。
皆がプロセスの途中で、プロセスのどの位置にいようが劣っているということではないのです。」
一昨日、USBを買いに上新電機へ行ったついでに、中にあるオモチャコーナーに立ち寄りました。
プラモデルを置いてるところで思わず固まったのがコレ。
アポロ11号の月面着陸機です。
これを見ていて、手にとってみて、あの日のことが鮮烈によみがえってきたのです。
確か小学3年生の時だったかな。
2月2日の誕生日にお母さんに商店街のプラモデル屋さんでこれを買ってもらいました。
もちろん当時のものと全く同じではありません。
家に持って帰ってすぐに食堂で箱を開け作り始めました。
まだプラモデルを作るのに慣れていなかった僕は、組立てのごく最初の方である部分の突起を折ってしまい、そこが折れるとそれより先には進まない、つまりそのプラモデルは完成しないのです。
せっかく誕生日に買ってもらったのに、「お母さん、出来たで」と見せることもできない。
そして誰かが悪いんだったら怒りの持っていきようもありますが、ダメにしたのは自分自身。
箱に残っているほとんどさらのままのパーツを見ながら、かなりへこみました。
それが40年近くたった今、目の前にある。
そこから動けません。
いまだにこのプラモのこと考えると、心がうずくんだよなぁ。
お母さんに申し訳ない気持ち。
自分自身の情けない気持ち。
カッパにだっていろいろあるんでございます。
明日、金城初子さんのディクシャセミナーの主催者の方たちとの飲み会に参加します。
とりあえず、謝っとこ。
2011.12.10