生きることに意味などない。

生きることとは、生きることなのだ。

 

通常僕たちは、オシッコをしたいからトイレに行く、お腹が空いたからご飯を食べる等、必ず目的があって行為に及んでいると思っています。

ところが生きることの目的は、生きるという行為そのものにあるということです。

これはいったい、どういうことなのでしょう?

 

僕たちは最終的にはワンネスという頂上を目指して、各々が山の斜面の違う道を歩んでいます。

その頂上は遥か高みに在って、とてもじゃないけど目視できません。

見えているのは目の前の木々や草であり、その中を切り開きながら歩いているわけです。

道が昇りになっているのか、下りになっているのかも、行く手を遮っている枝や草を取り除きながらでないとわからない。

苦労して道を切り開いても、目の前は千尋の谷かと思わせるような下り道。

下りは楽なようですが、目指しているのが頂上なのですから、これは困ったものです。

そろそろ下り切っただろうと思って、前の枝を切ってみたら、またしてもひどい下り道。

ウゲッ!

 

頂上は雲に隠れて見えないけれど、方向さえ間違えていないのであれば、いずれはそこに着くはず。

だけど、苦しいんだ。

もう十分なんですけど・・・・・。

そこでふと考えるわけ。

「オレ、なんでこんなつらい思いまでして登山をしてるんだっけ?」

頂上に立った時の爽快感?

そういや昔、こんなこと言った人がいましたよね。

 

そこに山があるからだ

 

理由なんていらないのかもしれない。

山に登ることそのものが目的。

そう、登山の目的は山道を歩くことそのものにあるのじゃないでしょうか。

当たり前のことだったのだけど、頂上を目指すという言葉に惑わされがち。

であれば、つらくても、楽チンでも、一歩ずつ歩を進めないことには仕方がない。

そしてその状況を楽しむ・・・・・って、

あれっ?

結局それって、すべてをありのまま体験することじゃないの?

な~んだ、要するに同じことかぁ。

 

僕たちは、つい物事の原因とか目的とかを知ろうとします。

その結果、今の行為に集中できなくなります。

「シャングリラからの伝言」では、”人生の目的を知らずに人生を生きるとは非常に無謀なことだ”としてきました。

それは全くその通りです。

しかしながら、いざ僕が僕の人生に照らし合わせてみると、なかなかそうだと知っても上手くいかない現実がありました。

ところが先日、「そうか。生きるとは生きることなんだ。ただ生きる。それが答えかもしれない」と思いついたのです。

 

生きることに意味などない、というのは以前からよく言われていた言葉です。

しかし、自分が自分の人生を生きながらそのことが腑に落ちるのはまた別物。

ものの見方の問題なのですが、違う角度から見てみると妙に納得するものがあったりします。

そしてよく考えてみると、どの角度から見ても結局は同じことである、とも気づきます。

 

そうやって、ごちゃごちゃ頭で考えずに腹をくくって生きてみると、なんだか自分に起こることが変化してきました。

そう、ツキだしてきたのです。(馬券のことだけじゃないよ)

この流れはもう止まりようがありません。

こちらとしては、腹をくくっているからです。

何が来ても「かかってこんかい!」のスピリットが身体中を満たしているからです。

こうなれば、もう大丈夫。

そう、僕はもう絶対に大丈夫なのです。

 

僕は、”シャングリラからの伝言”は、皆さんと肩を並べながら、あるいはもしかしたらほんの半歩だけ前を行きながら、歩んでいきたいと考えています。

歩くのが速い人はどうぞお先に。

僕は歩みの遅い人から見えなくなるような所までは行きません。

すべての人がワンネスになるように。

むか~しに、ブログに書いたと思いますが、”シャングリラからの伝言”は決して皆さんを道に迷わせません。

2012.7.20