うちの従業員は、時々僕に相談事を持ちかけてきます。

「先生、今日診療終わったらちょっと話聞いてもらえませんか?」

これ言われたらドキッとします。

まあ、家族のことだったり、彼氏のことだったりするのですが、僕が彼女たちだとして仕事のことならともかく、プライベートな相談を男の院長にするかというと、絶対にしません。

でも彼女たちは僕にはしてくれるのです。

うれしいこと、ではあります。

信頼されているということでしょう。

なぜ信頼されるかというと、それは僕が正直だからです。

 

今、話題のいじめによる(と思われる)自殺問題。

そこで露呈するのは、教師が生徒たちに信用されていないということです。

いじめられている方にも信用されていないし、いじめている方にも信用されていない。

もしかしたら親も信用されていないのかもしれません。

教師が大変なのはよ~くわかっています。

親は自分の現実を認めるのが怖いものです。

なぜ彼らが信用されないかというと、嘘をついているのがわかるから。

でも今こそ、そこに光を当てなければ、ずっとこのまま。

なんとかこの事件が正しい問題提起へと繋がって欲しいと願います。

 

さて、「生きる」という今さらですか?という感じのテーマです。

生きるとは何でしょう?

何のために生きるのでしょう?

おそらく熱心な読者のあなたはこう答えるはず・・・・

 

”あらゆる体験を通して自分自身を深く知るため”

 

それは人生の目的。

人が何のために生まれてきたのか、の答え。

もちろん、生きる目的にその答えをしても間違いではありません。

でもね・・・・・

 

どんなつらいこと、苦しいことも味わい尽くせば、体験し尽くせばそこからスッと離れられて、次のステージへと導かれる。

ところがですね、次のステージには、さっきまで居たところが人生のどん底だと思っていたのに、まだ底があったの?って感じのものが待ってたりするんですよ。

ここで普通はへこたれます。

思わず天に唾したくなります。

「なんで俺ばっかりこんな目にあわなアカンねん!

これだけ一所懸命生きてるやないか。

これ以上どうせえっちゅうねん。

お前なんか(←神様のこと)死んでまえっ。(←死にませんからね、神様は)

くそぉっっ・・・」

 

悔しくって、情けなくって、その情けなさが自分だけじゃなく、夫として、父親としての自分にも向かってきます。

男としては矜持がありますから、仕事のことや経済的なこと、そんなことは一切家族には話せません。

心がどんどん孤立していき、ついには自分なんか生きている価値なんかないんじゃないか、と思うようになります。

そもそも生きるって何なんだ?

どうしてこんな苦しい目にあわなくちゃならないのか?

 

ここでの間違いはね、生きることの意味を探ろうという姿勢にあります。

生きることに意味なんてないの。

 

え?

だって、体験を通して自分を知るんじゃなかったっけ?

 

もちろん、そうです。

それが絶対的な真理であり、宇宙に存在するすべてのものの存在意義はそこにあります。

しかし、いざ実際に生きてみて、上の男性のような感じになれば、とてもそんな言葉では納得しかねるものがあります。

どん底の感情を味わいつくしたつもりなのに、いったいいつまで続けば気が済むのか?

「シャングリラからの伝言」は嘘をついていたのではないか?

 

僕が今まで生きてきて思うのはね・・・・・

 

生きるということは 生きるということなのだ

 

ということです。

ドツボに嵌って抜け出せない時、理由を考えたり、成功本に書いてあることを試してみたり、、、、

とにかく頭で色々考えたら腹ばかり立ちます。

そういう時にハウツー本の通りにやっても上手くいかないの。

かといって、ドツボのままいるのも御免です。

どうしたら良いのでしょうか?

 

何も考えずに、ただ生き切ることです。

現状は当面変えられない。

ここはひとつ腹を据えて

”なんぼでもかかってこんかい!”

”どこまででも相手したるわい!”

”どん底はこんなもんか?もっと来いや!”

くらいのノリが必要です。

 

ところがですねぇ、事、ここまで至るとあれれ?

何だか宇宙が動き出しましたよ。

もしかしたら、上昇気流が出てきたかも。

 

さあ、そこからが勝負です。

この勝負の仕方についてはそのうちに。

昨日の宿題、ちゃんとやっといてね。

2012.7.19