平和の灯
本日は長崎に原爆が落ちた日です。
昨日のブログで興福寺へ平和の鐘をつきに行くと書きましたが、長崎では午前11時2分に投下されたので私仕事中で行けないということを嫁に言われて気づきました。
もちろん他の家族は行くのですが、ことほどさように長崎の被爆は広島の陰に隠れがちになるので反省することしきりであります。
”どうして勉強しなくちゃいけないの?”のところでも書いたのですが、私は歴史を教えることにはあまり肯定的ではありません。
視点が変われば事実が変わる、つまり同じ出来事も違う国から見れば違うふうに映るからで、すると永遠に両国間に真の友好関係が生まれにくくなるのです。
つねに加害者と被害者が生まれてしまいます。
ところが今の広島や長崎のような平和への願いを発信するというスタンスであれば、被爆の事実は伝えていくべきだろうと考えています。
つまりアメリカへの恨みつらみじゃなく(もちろん心の底にはあるかもしれませんが)、被爆の現状を認識してもらってこういうことが二度と起こらない世界を作ろうという願いを伝えるのですね。
これこそ日本でしかできないことだと思います。
時々ご家族のことを相談されることがあります。
ご本人自身のこともあるのですが、ご主人のこと、あるいは子供のことで悩み事を訴えられるのです。
例えばお子さんがひきこもりや不登校であったり、家庭内暴力を振るうとしましょう。
いつも言うことですが、子供の問題は親の心の反映でしかありません。
それらの問題はすべて親に原因があるということです。
今あえて”原因”と書きましたが、責任といってしまうと「私の育て方が悪かったということ?」と良い悪いという概念を持ち込まれるのでそう書いたのです。
親が原因となりその結果が子供や自分たちに現れ、皆がそれを体験しているだけ、というのが起こっている事実です。
そして多くの母親が(父親から相談されることはまずありません)子供に起こっていることを傍観者として見ているのです。
息子が暴力を振るう、だからどうしたらいいですか?といった具合ですね。
完全に自分の外側で起こっていることを眺めて悩んでいるということです。
そしてその悩みは自分の息子や自分の家庭を(多くの場合、母親と父親との夫婦関係にも問題があります)他のところと比べることによって起こります。
もしね、すべての家庭が不登校児を抱えていたら悩みませんよ、こんなの。
すべての人間が50歳になったら胃癌で死ぬと決まっていたら癌患者は苦しみようがありません。
苦しみはすべて「なぜ自分だけが?」と思うから始まるのです。
この場合母親ができることは自分の内面に深く入っていくことだけです。
要するに息子をどうこうしようとか、父親を変えようとかするのではなく、自分の中に癒されていない心の傷があるということを見ていくしかないのです。
平和の灯はね、外にともすのじゃなく自分の心の中にともすものです。
自分の外側の世界に争いがあるのなら、それは自分自身の心の中が平和でないということなのですよ。
Amen
2010.8.9
写真左は昨日から当ビルエントランスに置きだした燈火器です。
ならまちに工房をかまえる武田高明という人の作品で、赤膚焼の器に桜の花びらの形にくり抜いた模様が施されています。
周りを赤色のついたてで囲んで蝋燭に灯をともすとご覧の通り。
写真右は当ビル2F待合室角に置かれている岩塩ランプで、常夜灯のようにずっとつけっぱなしなのですが、そのオレンジ色の光は見る者を癒してくれます。