シンクロニシティ(共時性)についての詳細はサイドメニューの方の記事を見て頂きたいのですが、今日問題にしたいのはシンクロが誰に対して起こっているのかということです。

こういうことがあります。

自分がセミナーか何かで深い気づきが訪れ、流した涙の分だけ心が晴れわたったとしましょう。

帰りの電車の中でふと窓から外を見ると、さっきまでの曇り空がウソのように晴れわたり、きれいな夕日がまるで自分を祝福してくれているようです。

と、こんなことは日常茶飯事にあるのですね。

でも考えてみてください。

その夕日を見ている人はごまんといるわけです。

そもそも神様の計らいだったとしても、空が晴れたり美しい夕日が現れたり、虹が出たりするのが特定の個人のためだったりするものでしょうか?

電車の中の隣の人には祝福はないのでしょうか?

あるいはその人も祝福されているのでしょうか?

でもその人、携帯でゲームしてるような人ですよ。

 

少しシチュエーションを変えてみましょうか。

今スピリチュアルセミナーが終了しました。

あなたは他の参加者50人位と一緒に会場から駅までの送迎バスに乗っています。

そして、先ほどの電車と同じようなことが起こりました。

この場合は、「神様は私たちを祝福してくださってるんだ」と思いますよね。

 

また別のシチュエーションです。

今回はめちゃくちゃ大人数でセミナーを行いました。

すべて旅行会社に委託していたので、帰りの電車も皆同じです。

車両一両分どころか、その列車自体が貸切で全部で千人以上は乗っています。

さあ曇り空が晴れわたり、虹がかかりました。

あなたこれ、感動します?

わたしたちを祝福してくれている」ってなりますかね?

あなたには深い気づきがあったかもしれないけれど、隣の人は「時間の無駄だった」と文句まで言ってます。

かとおもうと、向かいの席の人はいまだに涙が止まらないようです。

いったい誰のための祝福でしょう?

 

これに対する答えはね、みんなでひとつの体験をしているんだということです。

 

あなたの隣でゲームに興じている人は、あなたの感動をより大きくするために存在しています。

時間の無駄と文句を言っている人もそう。

涙の止まらない人は、あなたに共感を呼び起こします。

 

ゲームをしている人からあなたを見ると、何か窓の外を見ながら涙ぐんで変なヤツという感覚をいだかせてくれています。

文句を言う人は、セミナーで目覚めた人に嫉妬するし、列車の中での感動話が耳に入ってくると鬱陶しくて仕方がありません。でもそれはその人にとって自分が何者かを知る絶好の体験に他なりません(ディクシャによる無体験と同じ)。

涙の止まらない人は、周りが見えていません。

 

すべてひとつの体験の違う側面にすぎません。

どれも素晴らしい体験です。

 

これはワンネスということが腑に落ちていないと(頭で理解するだけでは足りません)本当のところは分からないでしょう。

 

わたしが祝福されている」と考えている限りは、永遠にそこにたどりつきません。

 

個人の体験なんて本当は存在しないのです。

 

で、偉そうに言ってる僕はどうかというと、やっぱりその瞬間は「僕が祝福されている」と思っちゃいます(あかんやん、それ)。 

そのあとに、「いや、違う違う」と思い直している現状です。

あくまでも今のところそうだということで、3年前ならこんなこと考えすらしなかったわけですね。

どうやら、僕はほんのちょっぴし進化していってるようです。

2010.10.27