よく考えてみたら昨土日は、金城初子さんのディクシャギバー養成セミナーなのでした。

僕は参加しませんでしたが、このホームページでディクシャのことや金城さんのことを知り申し込んでいる人が数名いらっしゃる旨を主催の方から聞いていたので、少々複雑な気持ち。

なんか精神世界に引きずり込んでいる気がして、ちょっと責任感じちゃいます。

でも金城さんのことだからきっと参加者の一人一人に素敵な気づきがあったと信じます。

ディクシャはあくまでも手段ですからね、目的となっちゃ駄目よ。

 

さて、今日と明日で人間にとってずっと悩みの種だった魂のクセはなぜ形成されるのか?について考えてみましょう。

過去世やバーストラウマ等ある程度は解明されていますが、最大のポイントである「怒りはなぜやってくるのか?」について僕なりの答えを提示します。

本来人間が持っていないはずの怒り。

じゃあいつどうしてそれを持ってしまうのか?

分かったんです、最近。

その結果ね、どういうことになるかというと、「こりゃもう仕方ねえや!それに関してはお手上げ!」となっちゃうんですねぇ。

聞きたい?(笑)

 

昨日書きましたように、先日僕より5つ6つ年上のとあるセミナーを主催している歯科医に対して非常にカチンとくることがありメールで「あなたは救いようのないアホです」と書いてしまいました。

当然相手の先生はお怒りになり、僕はその研究会を退会処分となったのです。

もう時代はワンネスに向けてこれだけ変化していっているのに、相変わらず自分のオリジナルのアイデアに対して特許を取るとか執着を持たれると、ちょっと違うだろうとなります。

その先生はセミナーの最初に誓約書を受講生に対して書かせます。

ここで見聞きしたことを一切口外しないということです。

それにサインしなければ教えないというのだから渋々サインしましたが、気持ち的にはちゃぶ台ひっくり返したいくらいの感じでした。

今回の先生からのメールも「くれぐれも内密に、油断大敵」みたいなことが書かれていたので、酒が入っていたことも手伝い頭ブチ切れました。

この酒が入っているというのもミソなんですが、これについも今後説明していきます。

 

さて、僕は人生の中でこのように「お前は間違っている。俺が正しい」と言ってはそこを去っていくというのを何度も繰り返してきました。

もうこういうことは金輪際止めようと思っていたのに、つい反応してしまった。

いつも言いますが、今はもう特別な人が特別な言葉でメッセージを伝える時代じゃありません。

こんな僕が僕なりの言葉で伝えようとするから、人の心に沁み込むのだと思います。

 

「それって、全然ワンネスじゃないじゃん」

「偉そうに言ってるけど分離の発想で、トラウマに操られているじゃないか!」

まさにその通り。

自分のことは棚にあげるところが僕の美点であります。

なかなかおれへんよ。

自分のことはさておいてスピリチュアルメッセージ出す人(笑)

でも少し以前とは違うことがあります。

それをこれからお話しましょう。

 

怒りを相手に向けるというのは、まあ絶対やらない方が良い類のものなんですが、その分こちらの心にもモヤモヤとイヤ~な感覚が2,3日は残りました。

相手を言葉で刺せば、返り血がこちらの体にもついて取れないのです。

ところがそれと同時に非常に爽快というか、心がスッとした感じもあるのです。

そりゃそうです。

元々その先生のスタンスが嫌だったんだもの。

 

歯科に限らずこういうワンマンで成り立っている会というのは、トップの周りが米つきバッタみたいなヤツばかりになり、組織としては硬直します。

それより何より人のために(今回の場合は患者さんのために)というのが根底にあるはずなのに、結局は自分大事かい!ということで、嘘がありますよね。

今までにそのような人や組織は山ほど見てきたけれど、結局は世間一般には認知されず亜流で終わります。

強がっているのは本人だけという状態。

認めない世間が間違っているのだと考えるわけです。

でも、自分のその考えなりテクニックを皆にさらけ出せば、本当に良いものであればそこで皆の手により更に鍛え上げられて不動の地位を得るはずなのです。

残念ながらこれを出来る人はほとんどいない。

 

大学病院を辞めた時も、その他の時も基本的に僕は孤独でした。

理解されない寂しさとともに、「こいつらアホじゃ」という人を見下したような感覚。

その後「あれで良かったのだろうか?」という後悔とともにしばらく漂流して、結局は行きついた先でもそのうち同じことが起こる。

これの繰り返しの人生。

今回が少し違ったというのはね、まず孤独感がありません。

主催のその先生に対する思いは「アホかい」ですが、その研究会の他の先生方に対する思いは何もありません。

皆同じことを心の中で思っているはずなんですが口に出して言わない。

裏では言ってるけど(笑)

そこに一石を投じたなんてことも考えていません。

僕のメールは主催の先生にだけ返したのですが、その先生はメーリングリストを通じて会員全員に流されました。

すると翌日には僕が米つきバッタだと思っていた先生から心配してくださっている旨の電話を頂いたのです。

口もきいたことないのに。

他にもメールをくださった先生がいらっしゃいました。

このことで僕がいかに人の表面しか見ていなかったかを思い知り、そしてよりによって僕が腰ぎんちゃくと思っていた先生がわざわざ僕のために電話をしてくださったということに感動しました。

このあたりが、以前とは物事の起こり方が全然違うのです。

どうしてだろう?

 

今よくよく考えるとそのセミナー主催者のコンセプトは隙だらけで、このままだとおそらくは発展しないだろう。(発展するだけの素材があるのに、自分だけで固持してしまっているからです)

それよりはこちらの方向に行った方が良いよ、と導いてもらってる気がします。

歯科で最も大切なのは噛み合わせです。

それの抜け落ちたものは、何であっても大きく患者さんの健康に寄与し得ません。

 

実は僕が今回持ってきている過去世のひとつに、「グノーシス派の僧侶」というのがあります。

グノーシス派とは、ありていに言うならば当時の教会のあり方に疑問を呈し、変革しようとしたのだけれど時期とやり方に問題があって結局は迫害された人たちのことです。

時代は違うけれど、見た目から僕がザビエルと呼ばれたりすることがあるのはそういう背景があるから。

許せないんですよ、組織の間違った在り方というのが。

ついついそうじゃないだろ、とやってしまうのです。

 

話変わって、赤ちゃんが生まれて初めて自分でなし得ることって何だと思いますか?

それはね、寝返り。

そしてハイハイ。

次につかまり立ちと、ついには自分の二本の足でしっかりと立つこと。

この時に両親や祖父母に見てもらって褒めてもらいたいのです。

自分が人生で最初に成し得たこの偉業を認知してもらいたいのです。

これをやってもらうのと、やってもらわないのとではその後全然違うのですね。

 

僕がインドに21日間コースに行った次の年に10日間の上級コースに参加しました。

その時のセッションの中で僕は自分が初めて自分の足で立った時のことを思い出しました。

1歳くらいの時の記憶が蘇ったわけです。

ディクシャってすごいよね。

すごくヨロヨロしながらもバランスを取りながら立っているんだけど、しばらくするとお尻からストンと落ちてしまいます。

その時の周りはぼやけていて、人がいたような気もするし、いなかったような気もする。

喜んでもらえたのかどうかもわかりません。

 

そのうちハイハイしだして、つかまり立ちするようになると2階にいたので危ないわけです。

それで階段の踊り場のところに木製の柵が設けられ、僕のいる2階と両親が働いていた1階にある歯科医院とは分離されました。

このことにより僕が常に心の中に抱いている、自分のことを認識して欲しいという決定的なトラウマというか性格を形作られたのです。

 

グノーシス(Gnosis)とはね、認識という意味なんですね。

このように人は過去世と密接に関係したトラウマを必ず出生の時か、その後の乳幼児期に植えつけられます。

これにより元々持っていた過去世の記憶が、現世においてより現実的、物質的にチューニングされて、身体の各細胞から発信されだすようになるのです。

そして僕であれば「認識してほしい。自分を認めて欲しい。こちらを向いて欲しい」ということを痛切に感じるような出来事ばかりを呼び寄せます。

 

考えてみてください。

つたい歩きが楽しくって嬉しくってお父さんとお母さんに見てもらいたいのに、箪笥やガラス戸を伝って行った先には自分と親を隔てる柵があるのです。

階下は歯科医院で、その頃は予約制ではないので待合室は患者さんで溢れかえっています。

これは僕は社会とも柵により隔てられているということを意味します。

う~ん、切ないぜ。

 

さて最後に、どうして今回の騒動だけはその後起こることが今までと違ったのでしょう?

それはね、おそらくですが、僕がそのことをきちんと認識しているからではないでしょうか?

「ああ、またやっちゃった」とは思うのだけれど、何をしているかはきちんと客観的に見ている。

確かに怒りにまかせてメールは打ちましたが、それはあくまでもその時だけのもので、今はその感情は引きずっていません。

僕は現在一国一城の主で、その騒動により何の影響も受けない。

相変わらず前を向いて歩いていける。

ここが違うのだと思うのです。

 

こういうトラウマがある場合、僕は今回の人生で何を体験したかったのでしょう?

あるいは何を学びたかったのでしょう?

認めて欲しいという思いを捨て去ることでしょうか?

去りたくなるような組織に留まって、平和的にその組織を良い方向に持っていくことでしょうか?

実は今の僕はそうは考えません。

客観的に見ている心の余裕がある限り、その感情に振り回されない限り、それをトコトンやり切るべきだと考えます。

つまりいわゆる”はねっかえり”を演じたおすということです。

言葉により人を傷つけるのはよくないけれど、組織の長たるものはある程度そういうことは覚悟の上でお願いしますって感じですかね。

 

次は歯科医師会でひと暴れかな?(もうええっちゅうねん、笑)

2011.6.8