どこまで行っても同じ風景

僕は常識のない奴が嫌いです。

アホも大嫌いです。

で、「おまえはどうやねん?」と聞かれると黙ってしまいます(笑)

 

電車に乗っていて携帯の着信音が響き、大きな声で話しだす奴見たらめちゃくちゃ腹がたちます。

どこかでそれは、「頭の中で世間的な常識と照らし合わせてその行為を判断したりするから腹がたつのだ、何も考えなければ腹はたたない」と書きました。

そんなことはわかっとる!

でも腹がたつのです。

だいたいが、今現在の社会で常識と照らし合わせて人を判断しないなんてことが出来るかっつうの!(こんなん言ったら元も子もない気がしますが)

 

そこで戦わない、逃げない、とはどういうことでしょうか?

 

戦うというのは怒りを相手にぶつけることです。

直接文句を言うのも手を出すのも含めてそれらは戦うということです。

これらが何故いけないかというと、堂々巡り、新たなカルマを作るだけだからです。

頭の中で攻撃するのもいけません。

「こいつ死んだらいいのに」とか思うと、そのエネルギーは結局自分に帰ってきます。

あまりヨロシクありません。

他人を攻撃するのはその時はスカッとして気持ちが良いのですが、最終的には自分自身にダメージを与えます。

 

逃げるというのは、文字通りその場から立ち去ることです。

次の駅で降りる、隣の車両に移るなど。

ところがね、隣の車両に移るとするでしょ。

するとそこでは、騒いでいる自分の子供を注意しない母親がいたりなんかする。

うちの子供たちが小さかった時は、僕たち夫婦はベビーカーは折りたたんで乗るか(子供は抱っこする)、荷物が多くどうしようもない時はなるべく車椅子用のスペースとか他人の迷惑にならない所で立っているようにしたものです。

最近の若い夫婦を見ていますと、平気でベビーカーに子供をのせたまま座席の真ん中当たりに陣取られます。

そこで子供がむずがってもそのまま。

 

要するに携帯から逃げてもこういう光景にまた出くわしてしまって、腹がたつ状況は何も変わらないということです。

どの車両に行っても同じこと。

それが止むのは僕が「ああ、同じことなんだな」と気づいた時です。

 

ではどうすれば良いかというと、この場合相手は関係ないのです。

相手が良い悪いではない、常識があるないではない。

僕がその場面で体験することは腹がたつという感情なんだから、その感情から逃げずに味わえば良いだけなのです。

意識を腹がたつ相手から、腹がたつという自分の感情へと向ける。

感情を味わうとは以前にも書いた気がしますが、その時の体感を味わうということです。

 

一応ここでは怒りも感情に含めますが、あらゆる感情というのはその実体は身体にわき起こるある種の感覚、身体感覚なのです。

ここがイマイチ理解されていません。

感情を味わうという能動的な書き方をしているのは、まさにその身体感覚に意識を向けてその感じを味わってくださいということなのです。

ウルウル、ワクワク、ムカムカ、これすべて身体の感覚でしょ。

感情を味わうというとなんだか心を感じるみたいに思われるのですが(これ掴みようがない)、そうじゃなくって身体に起こる感覚の変化を感じることです。

 

この際に往々にして頭であれやこれや考えて(車内アナウンスで携帯による通話の注意をしてたとこなのに聞いてなかったのか、等々)、新たな感情(怒り)を呼び起こしてしまいます。

これ不要、ていうかやっちゃダメ。

最初の怒りだけが純粋な感情です。

他は自分で創り上げた感情もどき。

そこに浸ってしまうと、怒りのスパイラルから抜け出せませんよ。

最初に感じた怒りの身体感覚、これはその状況により微妙に変化しますが(怒りは全部同じ身体感覚ではないということ)、そこにじっと身を任せて感じるだけ。

するとその感覚はそのうち肝臓が溶かしていってくれます。

それで、ハイ!体験その1終了!

となるのであります。

 

身体というのはまず外界の変化を感じるためにある。

そして外界を変化させるのが身体が起こす行動であったりする。

その外界の変化が自分の中に感情の変化をもたらす。

変化することにより、喜怒哀楽がわかる。

ずっと喜びだったら、喜びがわからないように、それらは変化する必要がある。

感情の変化を感じるのが身体なのである。

つまり身体とは突きつめて言うならば、感情を味わうための道具なのだ。

 

こういう怒りを呼ぶ機会は何度かやってくるでしょうが、このように戦わずに逃げずに味わいきれば、そのうちそういう機会はやってこなくなるでしょう。

またそういう時に怒りの感覚がわいてこなくなるかもしれません。

悟っていく過程の中で人は感情に対する対応がこのように変化していきます。

悟った人だって怒りはあるけれど、それを味わえば一瞬で消える。

その一瞬がどんどん短くなっていくので、悟った人には怒りはないのだと勘違いされるのです。

まあ、あるレベル以上になると本当に怒りの感情はなくなりますがね。

だって怒りって本来の感情じゃないから、無くなって当然なんです。

怒りは何度も言いますように感情の爆発のエネルギーのことで、本来は他の喜びや悲しみの感情にくっついているべきものなのです。

これもほとんど知られていませんね。

ていうか、勝手に僕がそう言ってるだけなんだけど(笑)

 

最後によく聞かれる質問に対する答えを。

「どうすればプレゼンス(ディバイン、神、宇宙)とつながれますか?」

 

時々メールで色んな質問を頂きますが、基本的にこのホームページの中に答え、あるいはヒントが書いてないものなんておそらくないはずです。

でも聞いてこられるのです。

人に聞くのは簡単だけど、それじゃ成長しませんぜ。

何度も繰り返し読んでいたら、前には注意を払わなかった文章が今回は目に飛び込んできた、とかあると思うんです。

それが今、必要な情報のはずなのです。

その位の努力はなさっても良いのではないかと思うのですが。

このブログは、時になんてことない僕の日常を書いているだけのこともありますが、そういった中に答えを見つけることだってあるかもしれません。

 

読むのが面倒くさい。

ああ、あなた僕と同じだ(笑)

もうスピ系の本だとかブログだとか言葉だとか手放したらいかがでしょう?

たとえば僕のブログを読んで、あるいは下の回答を読んで「ああそうなんだ」と納得したところで、それは単に知識として知っただけの話です。

智慧じゃありません。

腑に落ちなけりゃ意味がないのです。

そしてそれは最善のタイミングで自分に与えられる ということがどうして信じられないのだろう?

どうして今、全部知りたがるの?

知ったところで、先ほど言ったように知っただけじゃ意味無いんだって。

どうしてその時を待てないの?

時間は・・・・あるよ。

本日のタイトルはね、すぐ答えを外に求めようとする人が体験することも表してるんです。

 

体験とともに知識が身体に沁み込んだ時、それは智慧となる

 

別に僕、怒ってるわけじゃないですよ。

ただ言いたいこと言ってるだけです(笑)

 

ということで、上の質問の回答も以前書いたブログ「宇宙とつながる方法」に明確に記してありますが、よく聞かれることなので再度書いておきましょう。

 

「あなたはいつもつながっている。それに気づいていないだけだ」

 

自分に起こること、自分の周囲で起きていることに注意深くあるべきです。

ぼうっと生きていたら神とつながっていることに気づくことなんてあり得ないでしょう。

 

どうして目の前に今、スズメが飛んできてとまったの?

どうして目の前の葉っぱが揺れるの?

どうして道端の花は誰も見ないかもしれないのに精一杯咲いているの?

 

あなた、こんなこと考えながら普段道を歩いていますか?

考えなくてもいい、感じていますか?

もし注意を払えば、それだってあなたにとって出来事だし、体験であるはずです。

視界に入っているはずなのに、見ていないのなら、あなたが体験を放棄しているのです。

その体験はどこからやってくるのか?

誰がこんな演出をしているのか?

そんなもん、神様(ディバイン、プレゼンス)に決まってまんがな!

神様とつながっているという感覚を元に体験する時、どのような体験であろうとも喜びという感情しか起こりません。

 

こんなとこでよろしいでしょうか?

口を酸っぱくして言いますが、このホームページは皆さんの気づきの場であって、何かを教える場じゃありませんので、勘違いなさらないように。

2011.8.28

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