僕は決めごとを守るのが苦手なので、毎日瞑想の時間をとるなんてことはしません。

むしろ面倒くさいことがきらいなので、瞑想すらあまりしないと言った方がいいかもしれません。

でもしないわけでもないのです。

確かに人がより良く生きるために有効な手段ですから。

 

瞑想には僕が思うに2つの効果があります。

まず、目を閉じて一切何も考えない状態、何の考えもない状態というのは、著書にも記してあるように、まさしく宇宙創造以前のただ意識があるだけの状態であり、いわゆる無のことです。

実は現在の膨張細分化した宇宙の裏にはもうひとつ相変わらず無の状態の宇宙が存在するのですが、瞑想はその状態を自分の中で再現することです。

自分がかつての宇宙の始まり以前であり、そして今の宇宙そのものであるということを体験しているのです。

これにより宇宙との一体化、忘却していたことの覚醒、神実現などが起こったりします。

自分が何者かを思い出すということです。

 

しかし、今言ったような何も考えない状態というのはなかなか続けられるものではありません。

30秒どころか10秒できれば達人です。

さまざまな考えが頭に浮かぶし、外界の音が気になってくる。

瞑想ではそのような状態の中で、考えが頭に浮かぶのは良しとするも、その考えをどんどん追っていかないようにします。

座禅でも同じこと。

外の騒音が気になっても、あるいは身体のどこかが痒くなっても、一瞬そこに気を向けるのは良しとして、すぐに意識を自分自身に向けるようにするのです。

意識を自分自身に向けやすくするために、よくやるのは呼吸に意識を向けるということです。

自分の呼吸を見つめるのです。

瞑想の2つ目の効果として、外側で起こっていることは切り離して、あくまでも自分自身の内側に起こっていることに目を向ける訓練になるというのがあります。

昨日のブログで書いたように、電車で携帯で話す人は自分には関係ないのです。

そこでその人や行為に対する価値判断をするのではなく、その時に自分の内側に何が起こっているのかを見つめるだけ。

するとその感覚はしばらくすると去っていく。

つまり感情というのは波のように来ては去っていくものであるということ。

感情をそのように味わっては手放す訓練のために瞑想は有効であると言えます。

であるならば、静かな場所で瞑想するのも確かに気持ち良いけれど、雑踏の中で瞑想する方がこの場合は理にかなっているかもしれません。

 

今年はお盆に墓参りに行けなかったので、昨日行ってきました。

その後はいつものところで吉野川の天然の桜鮎の塩焼きと素麺と柿の葉寿司で昼食。

そして川遊び。

今年はいつも行く川辺があまりに人が多かったので、初めての場所を見つけました。

草ボウボウの所を抜けていくと、誰もいない河原へでます。

その辺りは流れも緩やかなので子供たちも安心。

吉野川2011.jpgまるでプライベートビーチのよう。

時折、カヤックに乗った人たちが川を下っていきます。

写真は河原に辿り着いた漂流者じゃありません。

昼寝している奥さんです(笑)

これが岩盤浴みたいで気持ちいいんだ。

新潟記念はハズレ。

2011.8.29