屋久島から昼の1時過ぎに帰ってきた僕は、すぐに奈良に帰らず、伊丹空港から梅田行きのバスに乗り、行きつけの蕎麦屋さんが開くまでの間、本屋さんで時間をつぶしてました。

その後、これまた行きつけのバーに行き、超久々の知り合いに会い、僕の本のことについて熱く(僕だけ)語っていました。

屋久島でのことは明日にでも書きますが、筋肉痛で体中ピキピキ、手足は傷だらけ、少し日焼けした状態です。

 

さて、この「ハートを開く」というのも、わかったようで非常にわかりにくい言葉です。

以前書きましたが、僕は10年くらい前に沖縄の石屋さんで水晶の数珠を左手にはめた瞬間に心臓が膨張するのを感じ、数秒でまた元に戻るという体験をしました。

今から考えるとそれこそがハートが開くということなのではないか?

こじつけのようでもありますが、本人はそう思っているのです。

で、その後何かが変わったかと言われると、よくわかりません。

しかし、人が覚醒していく必要条件としてハートが開くというのは必須のようです。

誤解されやすいのですが、ハートが開く=愛に溢れた人になる、ということではないのです。

 

では何かと言うと、第一におそらくはハートの(第4番目の)チャクラの活性化でしょう。

チャクラというエネルギーセンターは高い次元から見ると、エネルギーの渦が高速回転しているのですが、我々はその回転がいびつなことが多いようです。

活性化とはその回転を正常にすること。

加えて、そこはオーラの最も濃い部分です。(オーラ写真では身体が重なって写るのでわかりにくい)

つまり霊的な自分の中心がそこ、すなわちハートセンターにあるわけです。

それに気づくというのが第二の意味。

真我との統合ですね。

 

ハートは愛、許し、寛容を担う場所ですが、それはすなわち勇気をも示します。

勇気というのは何もバンジージャンプにトライするというようなことではありません。

何ごとも裁かずにそのまま受け入れるということです。

またすべてを委ねるということでもあります。

これがハートが開くことの三番目の意味。

 

ハートが開いたらすぐにチャクラが活性化し、真我と統合され他人を裁かずに受け入れられるわけではないですよ。

あくまでもその手始めと言うか、スタートを切ったというに過ぎません。

しかしスタートを切らないことには進まないわけです。

だから実際にはハートが開き始めた、と言うのが正解かもしれません。

 

チャクラとは大ざっぱに言って次のようなものです。

腹から下は生命エネルギーを取り入れる場所。

ハートは今言ったような場所。

次に喉ですが、ここは表現の場所です。

自分の存在を表現する場所ですが、自分を受け入れてもらえないという感覚に捉われるとトラブルを起こします。

よくクンダリーニが上がると言いますが、下の方のチャクラから背骨の両サイドにあるといわれるナディ管とピンカラ管をらせん状に取り巻くように天頂のチャクラまでエネルギーが上昇していきます。

僕の場合には背筋がゾクゾクッとなる感じで、らせんという感覚はわかりません。

 

どこかのチャクラにエネルギーの停滞があると、そこでつっかえてしまってクンダリーニが上がっていけません。

だからずっと言いたいことを我慢していたり、それを自分の奥深くに押し込めていたり、また逆に他人の悪口ばかり言ったりすると、エネルギーは5番目の喉のチャクラより上に行かず、その結果天目(第三の目、6番目のチャクラ)が開くことはありません。

ここが活性化されると、情報を直接宇宙から直感と言う形で受け取るようになります。

そして最後の7番目のチャクラ、天頂のチャクラが開くと天とつながる、自分が宇宙、宇宙が自分という状態になっていきます。

 

クンダリーニが下降する時、それは上位のチャクラが下位のチャクラをサポートする時です。

今度は天啓が降りてくることにより、自分を表現しだし、それがハートセンターをより開花させていき、さらにしっかりとグラウンディングして生きるようになります。

誰でもが僕のような心臓が膨張する感じを体験するわけではありません。

体験は人それぞれ違っていて、一人一人にスペシャルなものが来るはずです。

だからハートが開くとはどんな感じ?と聞かれて答えても、それはあくまでもその人個人のものということですから、あまり気にしたって意味がないですよ。

2011.9.13