シネマ・パラダイス

土曜日は結局6軒ハシゴして帰ったん朝の4時て。

4時間の睡眠の後、セミナーへ。

我ながら元気やなぁ。

 

個人セッションでは、何かを解決するわけでも、何か虎の巻を伝授するわけでもありません。

最後にまとめの言葉を言うわけでもありません。

自分という小宇宙(ミクロコスモス)を旅しながらその神秘を発見していくのは自分でしかありません。

僕はただ、その航海の水先案内人でしかありません。

といっても実際に案内するわけではなく、星の位置を読んで自分の現在地を知る方法、そこを支配している自然法則の説明、そして何よりも、その航海にはスタートとゴールがあり、きちんと目的があるのだということをお教えしているに過ぎません。

 

土曜日のセッションの中でクライアントの方に次のようなことをお話しました。

感情を味わう、表現するということについてです。

これはよく使われる例えですが、我々は自分が主演している映画を客席で観ているにすぎません。

映画を観ている最中にはいろんな感情がわいてくるでしょう。

それを味わって、表現する時にスクリーン中の自分の周りの役者たちに対して腹を立て、実際にスクリーンめがけて殴りかかる人などいないでしょ。

それでは感情に巻き込まれている(実際にはマインドに操られている)のです。

 

ところが現実には実に多くの人間がこれをやってしまっています。

周囲の役者は単なる感情を呼び起こす道具でしかないのに、ただそのために協力してくれているだけなのに、感情を表現する際に相手にぶつけてしまいます。

僕たちは単なる観客でいなければならないというのに。

それはつまり人生においての様々な局面で、自分を冷静に見ているもう一人の自分がいた方が良いということです。

 

さて、その映画を観る人が変われば、それ即ち主役が変わります。

その映画は誰かが主演で誰かが脇役という台本ではなく、観た人がその映画の中に自分を見れば、自分が主役になるという代物です。

たとえば今やっているNHKの連ドラ「おひさま」では陽子が主役になっていますが、それは現在の陽子役の若尾文子がナレーションをしているからで、あれを抜けば誰が主役かなんてわかりません。(ちなみに、若尾文子のナレーション全然いけてないと思うのは僕だけ?)

ですから同じ映画を観ているのに、僕と違う誰かがそれを観ると、僕とは違う感情が起こるわけで、それはする体験が違うということを示します。

同じ映画が全く別物になる、あるいは複数のパラレルワールドが同居するとも言えます。

 

映画ですからスクリーンに映るものはすべて幻影です。

そこで誰かが傷つこうが、病気で死のうがすべて幻影なのです。

究極の現実はただ僕たちがその幻影を観ているという点にしかありません。

これは以前、「人生は活動写真のように」でも書いたと思いますが、究極の究極の現実はその客席に座っているのは わたし というたった一人の観客であるということです。

2011.9.19

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