期待と利己主義

え~、昨日からある方の遠隔ディクシャが始まりました。

直接にディクシャをする時は頭に両手を置きますが、遠隔の場合は意識でするだけです。

不思議なことに、こっちの方が強烈なエネルギーが流れるのです。

遠隔の最中には僕はだいたい結跏趺坐というか瞑想の姿勢をとりますが、最近ではその最中に両手が勝手に動き出すことが多いです。

ヒプノセラピー(退行催眠)なんかでは、セッション中にクライアントがトラウマの原因、例えば産まれる時にへその緒がクビに巻きついて苦しかったのなら、喉が絞めつけられるような感覚があったり、過去世で事故に遭って死んだのなら、その時の姿勢を再現したり、ということがあります。

遠隔ディクシャの最中の手の動きというのは、はっきりはわかりませんが、クライアントに対する何らかのメッセージのような気がしています。

まあしかし、横で見てたならイタコか霊媒師やね、こりゃ。

と、思ったら近くにいた嫁も勝手に身体が動いたそうです。

変な夫婦(笑)

 

もし皆が一般的な意味合いでのエゴイスト、それも究極のエゴイストになったとしたら。

例えば、コンビニに入ろうとした時に、中から出て来ようとしている人がいる。

その人がドアを開けて、普通だったら少しドアに手をかけておいて、次の人が入りやすいようにするものですが、そんなこともせず、自分が出たらサッサと閉めちゃう。

通常の概念でいくと、その人の人間性疑いますよね。

でも、エゴイストなんです。

ここで問題提起したいのは、その人のことをエゴイストだと判断するのは(繰り返しますが、いわゆる世間で言うところの利己主義のことで、一昨日定義した意味合いではありません)、次に店に入ろうとしているこちら側が、きっとこの人はドアを少し開けておいてくれるだろうと期待しているからに他なりません。

期待するのはこちらの勝手な都合です。

そしてその期待が裏切られたら、相手の人がひどい人になっちゃうのですね。

これは最初の期待が間違ってませんか?

相手は自分の用がすんだらドアを開けておく必要などないわけです。

それを入ってくる人のために少し開けておくかどうかというのは、その人に思いやりがあるかどうかと考えるより、その人の勝手なんじゃないでしょうか?

そりゃね、こちらがドアをはさんで向かい合っているのに、急にドアを開けられたら頭とか顔をぶつけますから、それはあかんでしょう。

それは常識がないと言えるけど、先ほどの場合はエゴイストなんだからOKじゃないですか。

 

この話にはすぐ気がつくトリックがあって、相手がエゴイストならこっちもエゴイストなので、本当はどちらもドアの取っ手を握って開け合いっこになるというのが正解(笑)

 

他人に何か期待をするから自分は裏切られたと感じてしまう。

そして相手の行動を価値判断して裁いてしまう。

相手の立場に立ってとかじゃなく、何も期待しなければそこでネガティブな感情など起こりようもないのです。

もひとつ言うと、自分が行動する時に周囲の期待を背負ってしまう、あるいは意識してしまう。

それはいわゆる常識というものだったり、周囲が勝手に作り上げた自分のイメージだったり。

その期待に沿うように行動しようとするなら、それは全く自由ではなく束縛されていることになります。

ここでも、そんな期待など関係なく自分が好きなように動いてみればいかがでしょう?

 

これらはあくまでも極論ですが、この話は考えさせられることが多く、ある意味においてそういう期待が僕たちをがんじがらめにしているとも言えるのですね。

本当は他人にすることは、すなわち自分に対してすることなので、いわゆる利己主義というのも自ずから制限がかからざるを得ないのです。

エゴイストであることと(ここでの言葉の意味はどちらにとっても構いません)、思いやりのあることとは実に微妙な関係にあるのですが、わかってしまえばどうってことありません。

何をわかるかというと、そりゃあなたワンネスでんがな。

2011.11.16

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