グルにサヨナラ ~Farewell to GURU~

ここで、ワンネスユニバーシティのバガヴァンが推奨している「わたしは存在・意識・至福である」というマントラについてはっきりと書いておきたいと思います。

「逆転の発想」でも記したように、我々は思考→言葉→行為の順に現実化をしていきます。

そしてそれを逆転させ思考(思い)を実現するためには、先にそのように行動すると早いということでした。

そこで考えてみて欲しいのですが、先のマントラは各々そのように行為に移せるでしょうか?

存在という行為はどうでしょう?

意識である行為はどうでしょう?

唯一、至福というのは行為として表せないこともないですが、ここでは幸せではなく至福となっています。

一般的な人間が至福の状態ならどう行動するか?などということを実現できるものでしょうか?

無理でっしゃろ、そんなもん。

 

要するにこのマントラは言葉の意味自体は正しいものの、マントラとしては全く用をなさないということです。

般若心経の「ガテー ガテー パラガテー・・・」とか(これはサンスクリットを解する人限定)、万人に効く「オーム」とかのように、身体の細胞を振動させ、閉じている回路を開いていくというふうにもなりません。

だから全くのナンセンスであると言いたいし、時折書きますようにバガヴァンってほんまアホやのぅ!と思うわけです。

僕は彼のワンネスムーヴメントは(発想は)素晴らしいと思うし、カルトだなどとも思っていませんが、アカンもんはアカン。

だからバガヴァンが言ったからと、無分別にそのようなマントラを唱えたり、今さらヒンドゥーの儀式もどきをやってみたりする人たちには「ハア?おまえら大丈夫か?」と思わざるを得ません。

いったいどういう感覚してるんだ?と思うのです。

普通、違和感感じるやろ。

何でその違和感を無視すんねん?となるのね、僕の場合。

 

インドに行ってそれをやるのはいいのよ、別に。

郷に入っては・・・だから。

でも日本でやるには、その本質を日本向けに置き換える翻訳作業(transformation)が必要なのであって、そのままやるということは要するにことの本質を理解していないし、理解していないから翻訳もできない、その能力もないということになるわけです。

 

なぜこの大事な2011年にサティア・サイババが地球を離れたのだと思いますか?

彼の魂ががもう十分に役割は果たしたと考えたからに他なりません。

もう、グルなど必要ないのです。

彼の逝去はそのことを端的に表しているのに、皆気づいていないのでしょうか?

 

これからはグルが自分のエネルギーで、あるいは宇宙から降ろしてきたエネルギーで相手に力を与えるようなものは流行りません。

もう時代遅れ。

相手が自分で宇宙とつながって、そして自分で力を得るように導いてあげ、あとは退く。

そういう人じゃないと付いていっちゃダメよ。

相手を照らしてあげる人じゃなく、相手が自ら光り輝くお手伝いをする人。

大切なことは自立、そして自分に大きな力が備わっているのだと気づかせてあげること。

ただそれだけ。

 

よくこの世界の人がいうんですが、〇〇のお蔭でこうなりましたとか、〇〇と出会ってなかったら今ごろどうなっていただろう?とかね。

これ半分正しくて半分間違っています。

出会いは必要だし、それに感謝するのもわかります。

でもはっきり言って、そこに依存があるよね?

自分だけじゃまだまだだと思ってませんか?

もしそうなら、そのグルは本物じゃないのです。

 

本物のグルとは霞みとか霧のようなもの。

その中であなたが道を探して彷徨っている時に、目の前がはっきり見えないんだけれど、自分を信じてエイヤッと歩いていけば、ちゃんと正しい道に出ることができた。

さあ、この場合、グルはどこにいたのでしょうか?

その霞みや霧がグルだったかもしれないし、自分を信じたあなたがグルだったかもしれない。

要するに実体があるようでないものなのです。

 

人によれば僕はここで自分の方が素晴らしいでしょ、と言ってるようにとられるかもしれません。

そのように受け取られても仕方のない書き方をしているとは思いますので、思いたい人はどうぞそう思って頂いて結構。

この間も書きましたが、その考えであなたは拡大するのか?縮小するのか?です。

僕はもっともっと皆さんが自分自身の内なる力に目を向けて欲しい、そして外側にいるグルやエネルギーワークなどは単に利用するだけという感じで臨まれたらと思うのです。

 

イエスにしても仏陀にしても他の聖者にしても、どういう事を言ったかが重んじられ、何をしたかが語られることは非常に少ないです。

言葉というのはどうしても制約を受け、伝えたいことが本当に伝わらないことも多く曖昧です。

おまけに弟子たちや時の政府がからんだ伝言ゲームになってしまって、今、伝えられていることは本当に彼らが話したことかどうか怪しいもんです。

しかし、行動というのは弁明のしようがありません。

そのままですから。

イエスは何をしたのか?それにより何を示そうとしたのか?

仏陀は何をしたのか?それにより何を示そうとしたのか?

これこそが重要なのに、教えばかりが先行してドモならんようになっちゃった。

まあ少なくともその二人は競馬はしてないやろうけど・・・・・

 

歯科保健フェスティバル

本日勤労感謝の日は、新大阪に当院の村上さんと柳原能婦子さんの講演を聴きに行ってまいります。

勤労といえば、この前の日曜日、わたしは歯科医師会の会員として出務しておりました。

たまにはこのように公務をこなしている姿を見て頂かないと、僕が何者か疑われても困っちゃうのでね(笑)

当日村上さんはお母さんと来ていて、何度も僕に声をかけたそうですが、僕は一向に気づきませんでした。

2階から声かけられてもなぁ。

後ろと違て、上からて・・・・。

2011.11.23

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