もし生まれて初めて読む本が「シャングリラからの伝言」だったとしたら?
その子供が字も読めて読解力もあったとしたら?
それが常識となるでしょう。
「シャングリラからの伝言」を読んで、わからないとか難しいとかいう人は、違った概念の刷り込みが行われているので新しいものが理解できないというだけの話です。
四つの言葉というのがあります。
ホ・オポノポノでは
「愛しています」
「ごめんなさい」
「許して下さい」
「ありがとう」
joyヒーリングの中西研二氏流には
「ごめんなさい」
「ありがとうございます」
「これでよろしゅうございますか」
「どうぞよろしくお願いいたします」
皆さんはこれを聞いてどう感じられるでしょうか?
僕のような偉そうにしている人間は違和感を感じます。
なんで、俺が謝らなあかんねん!と。
何を許してもらえっちゅうんじゃ!と。
だってそうじゃない?
ヒュー・レン博士の言うことも中西氏の言うこともすべて理屈はわかります。
全面的に宇宙に委ねるのだ、ということもわかります。
まったくもってその通りだとも思います。
でも違和感があるのです。
お坊さんや神父さんたち、いわゆる聖職者と言われる人は、仏や神に仕えていると思っています。
神仏に言わすと、「わたしは誰かに仕えてもらう必要などまったくない」 そうですよ。
当たり前ですよね。
誰かに仕えてもらわないと成り立たないんなら、そりゃ神も仏もないもんだ。
参拝の仕方や、神楽やその他お祭りの時に神様仏様に捧げる踊りや唄。
神仏が本当に見たいのは人間が自由に舞い踊っている姿であって、「どうして決めごと通りに動くのか?」と思ってるみたいですよ。
「神との対話」の中でも神様が言ってるのですが
「頼むから、わたしを堅苦しい枠の中に押し込めるのはやめてくれないか?」
先ほどの四つの言葉での違和感はそこなのです。
あれを誰に向かっていっているかというと、ハイヤーセルフだったり、あるいは大きな意味での神だったり、宇宙だったり。
何だっていいんですが、どうしてそうへりくだる必要があるのでしょう?
これだと僕たちが神や宇宙の一部だというのとかけ離れてしまいませんか?
ヒュー・レン博士が偉いわけじゃないのです。
中西氏が絶対的に正しいわけじゃないのです。
皆さんにとっての正しいことは皆さんが決めることです。
僕はかつてインドのワンネスユニバーシティの21日間コースの中で神との対話をしたことがありました。
僕の心の中での問いかけに対して、僕の身体に特定の動きを起こさせるということで答えてもらっていました。
その時の回答によると(僕の)神は僕の友達じゃなくて親だそうです。
父親か母親か聞きましたが、どちらでもないそうです。
いかにももっともらしい答えですね。
ただここで気をつけなければいけないことは、ある人にとっての神の存在はその人の意識が決めるということです。
きっと僕の潜在意識がそのように思っていたのでしょう。
今は違います。
親という認識はありますが、友だちに近い親。
親の愛情がありながら、親友の友情がある。
そんな感じ。
それに対して四つの言葉はそぐわないのです。
なぜかしら上下関係みたいになってしまっているでしょ。
そんなんイヤやもん、僕。
神と友だち
僕はそちらの方を選択します。
昨晩子供たちがツリーの下に置いていたサンタさんへの手紙を見ました。
慧はサンタを信じていますが、フウさんは疑っているみたいです。
今年は何が欲しいかの他に、去年もらったプレゼントのお礼と、それで楽しく遊んでいる旨が書かれていていて、最下段に「もしあなたが本物のサンタさんならここにハンコを押してください」だって。
この、クソガキ~!
2011.12.14
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