僕は段々プロ野球とか他のスポーツとかに興味がなくなってきました。
もちろん、なでしこジャパンのあの奇跡のゴールは胸が熱くなりましたが、でもやはり相手チームの落胆した姿を見るとあまり「やったぜ、日本!」とは思い難いのです。
一応、阪神ファンではありますが、むしろ万年最下位のチームが調子良い方が楽しかったりします。
勝敗を争うようなスポーツは今後、徐々に廃れていくでしょう。
ある種の競技に秀でた選手が莫大な年棒をもらい、本当の意味で真摯に子供たちの教育に携わっている人たちや、社会的貢献度の高い人たちが薄給だったりする現状はいかがなものでしょうか?
アメリカでは一流のスポーツ選手は、金銭的にもあるいは他の面においても社会貢献をすることが多いようです。
ただそれにしても、勝ち負けにこだわり熱狂するという感覚が少なくとも僕にはもう薄らいできました。
正直言ってくだらないと思います。
どうして点数をつけて優劣を競わなけりゃならないの?
楽しむだけじゃどうしてダメなの?
こういうことを書くと、「じゃあイチローとか王や長嶋、石川遼に浅田真央はくだらない人間なのか!」と言われるのですが、僕は人と争うような競技がくだらないと言っているのであって、それをやっている人間については言及していません。
まあ、心配しなくてもこのままいけば、そのような敗者を作るようなことは誰もバカバカしくってしなくなるようになります。
負けた者の気持ちがすなわち勝ったものの気持ちになるからです。
僕は、自分が昨日の自分より進化していればよしと思います。
他人に勝つこと、他人より優ることではないのです。
僕がこの先生素晴らしいなぁ、と思ったのが高校の時の体育の先生。
この先生は授業の始めからグラウンドには出てきません。
例えばバスケットの授業なら、生徒が各自自主的にアップする。
準備運動でも良いし、トラックを2,3周するのでも良い。
その姿を体育準備室から何気なく見ておられるのです。
そして点数のつけ方がしゃれていて、その生徒が学期を通じてどれだけ運動能力が伸びたか?そのためにどれだけ自分で考えて努力したか?ということを重視なさるのです。
つまり50m走をやって、順番通りに成績をつけるのではなく、8秒だった子が7秒になる、その伸びしろと努力で成績を決めていくのです。
僕はとりたてて運動が苦手ではありませんが、人より優るというようなものでもありません。
高校の当時はどちらかといえば下の方であったと思います。
だから普通に成績つけられるとC位の評価になるはずなのですが、そんな僕がある学期にAをもらったのです。
これはメチャクチャうれしかった。
勉強なら努力すればそれなりに成績は上がります。
でも体育において僕はA評価などとは一生無縁だと思っていただけに、ビックリしました。
これなら僕だって体育の授業に真面目に取り組もうという気になります。
でもこの先生がおっしゃっていたのですが、体育大学時代の友人とこのことについて話すと、必ず論争になるそうです。
友人の方の言い分は、「そんなことをすれば、本来運動能力の高いもののやる気をそいでしまう。優秀な生徒が能力を開花せずに終わってしまう可能性がある」というもの。
どちらも正しい気がします。
他人はキャッチボールの相手として存在します。
そして他人を通じて、自分のボールを認識します。
他人は合唱の仲間として存在します。
そして他人を通じて、自分の声を認識します。
走ることが好き。
速く走ることが好き。
昨日より速く走れれば、昨日とは違う風景が見られる。
ただそれだけのために、一所懸命走る。
それで良いのじゃないでしょうか?
囲碁や将棋などの頭脳ゲームも、それ自体は面白いでしょうが、きっと勝敗にこだわらなくなってきます。
参加しているみんなが楽しい、ということが何より大切。
そうでなければ気持ちよくないし、気分悪いのが人間の本当の姿です。
じゃあ競輪・競馬は?
そのうちなくなるでしょうが、今やめられると、そりゃ困る!(なんじゃ、そりゃ?笑)
本日より東京出張。
今日は青山で以前「アルトリ岬」でご紹介した加治将一氏の講演を聞いた後、2級天使の柴田さんと3人で一緒に食事をする予定。
日曜日は、山形県酒田市に歯科界では著名な熊谷崇先生という方がいらっしゃって、その最終講演を聴きに行きます。
場所は銀座。
青山とか銀座とかは超ひっさしぶりなんで、完全におのぼりさんですね。
そういや、銀座にWINSあったなぁ。
2011.12.17