一昨日、家族で朝から初詣に行った後、お昼に立ち寄った「かえる庵」さんで蕎麦を食べた後、僕だけ残り酒を飲みすぎました。

なぜ飲みすぎるとこうもコケルのか理解不能ですが、かえる庵のトイレで前のめりに顔からこけて、かけてた眼鏡は真っ二つ、鼻の付け根と第三の目のあたりに怪我をしました。

おかげでさっぱりメッセージが来なくなり、一番肝心な時に何してんねん!と思う次第です(←ウソ)

それにつけても中学校の時に僕の通知簿にずっと「もう少し落ち着きが欲しい」と書き続けた担任は、なかなかに人を見る目があるわい、と今更ながら感心するのでした(←アホ)

 

標準化とは何か?

ややこしい用語なのですが読み進めていけばわかります。

年末に知り合いの中3の男の子が治療に来た時に僕は次のように言いました。

「じぶん今、中3か?お母さん大変そうやぞ(笑)。そやけどな、学校の勉強できるやつが偉いわけやないからな」

彼は苦笑いしてました。

 

一般的に学校(塾)の成績というのは、5教科をおよそ80点以上とれるようなら良いとされるのではないでしょうか。

その他の美術、音楽、体育などはまるで付属品の扱い。

どっちかというと、そんな授業に使う時間があれば他の科目に使ってくれと思っている親も多いことでしょう。

この5教科を平均して8割とれるようにという感覚が実につまらん。

どうしてまっさらな子供をそんな窮屈な所に押し込めようとするのでしょう?

この平均、あるいは標準とされる所へ。

 

中学生くらいになれば将来展望を持たないといけないのでしょうか?

そのために高校進学も考えないといけないのでしょうか?

まだ人生を10年と少ししか生きていない子供なのに。

型に嵌められてきて嫌だった大人が、自分の子供を同じように型に嵌めようとするのは愚かとしか言いようがありません。

 

多くの大人が勘違いしているのは、例えば子供が医者になりたいのであれば、まずはその過程の体験を大切にすれば良いのに、医学部に合格することが主眼となっている点です。

近道しても遠回りしても、何したっていいのに、結果だけを重視してしまう。

こりゃ人生の意味を全く理解してないと言えます。

結果はあくまでも結果であり、プロセスこそが祝福されるべきものであるのに。

そもそも医者になることそのものが人生の目的になどなり得ないのです。

医者になったらなったで、それでどういうプロセスに自分を置いて何を経験するのかというのが問題となるわけね。

くどい位このことは書きますが、是非ともそこを誤解しないようにして頂きたいわけです。

ああ、つまらん。

 

さて、ここから話は少し転換していきます。

拒食と過食というのがあります。

では食(の量)の標準とは何でしょうか?

例えば相撲取りやプロレスラーがドンブリ飯5杯や10杯食べようが、誰も過食と言わんでしょう。

それは彼らの肉体がそれだけの量を必要としているからです。

カレン・カーペンターが拒食で亡くなったのは、食べなければ死ぬという概念があったからです。

一般的な人の過食はじゃあ何がそうさせているのかというと、そりゃその人の心がそれを必要としているからです。

飢えた心を食で満たそうとしているのですね。

プロレスラーと比べても、肉体と心の差があるだけで自分が欲しているという点において同じことです。

中には過食でその後嘔吐をする人もいらっしゃいますが、嘔吐はそんな自分に対する拒絶感です。

不食という概念が浸透すれば、拒食など何の問題にもなりません。

要するに拒食も過食も何が問題なの?そもそもどれだけの量食べたら過食で、どれだけ以下だったら拒食なの?という考え方もできるという話。

実際には当の本人にとってはそんな簡単な問題ではないというのはわかっていますが、でもそういう言い方もアリでしょ。

物の見方のことを言っています。

 

さらに話は進んでいきます。

今日のテーマはお気づきのように、物事の標準など何の意味もないということであります。

ではスピリチュアルの世界ではどうでしょう?

何が標準でしょうか?

精神世界には特に興味はないけど、別に毛嫌いするわけでもない人が標準?

物質主義の人はそれより劣っていて、アセンションとかワンネスとか言ってる人が70~80点くらいですか?

年末以来ずっと言ってることなんですけど、これも実に馬鹿馬鹿しい考えなのですよ。

中にはディクシャギバーになったら必ず守られるから2012年に何があっても大丈夫、だから是非ともギバーになってくださいみたいなタワケたこと言ってる人もいます。

それ本当にワンネスかい?

 

確かにね、人が二人走ればどちらかが遅くてどちらかが速いでしょう。

でもただそれだけの話です。

僕と嫁が同時に走りだせば、僕は彼女の前に位置する、彼女は僕の背中を見る、それだけです。

そこに物差しをあてがって優劣を決めることなど必要ない。

標準というのは、走る人が莫大な数になれば出てくる概念ですが、今も言ったように、だから最低でも標準にならなければいけない、あるいはそれより少し上回っていなければならない、などということは一切ないのです。

2012年、こういう感覚はどんどん消え去っていくでしょう。

2012.1.4