May I help you ? ~余計なお世話~

昨日の話を書いていて、僕たちが子育てや躾や教育と称してやっていることは、実際問題大人の垢を子供につけてるだけじゃないか、という気がします。

僕がインドから帰ってきて、ケビンのセミナーでオーラ写真を撮ったら真っ赤っか(これはサイドメニューの人の本体で見ることが出来ます。実際にはオレンジゴールドという色)

悩んでいる人、苦しんでいる人を助けたいという情熱が溢れまくっているのです。

ここがね、スピリチュアルの世界で多少ものがわかりかけてきた時にほぼ全員がはまる落とし穴なんですね。

表題通り、余計なお世話ってやつです。

 

鬱の友達を助けたい、妹が家族のことですごく悩んでいる、引きこもりの我が息子をどうにかしたい・・・etc.

よ~くお気持ちはわかりますし、大変ご立派な心がけですが、それって本当にその人のためでしょうか?

そもそもどうしたら助けることになるんでしょう?

ここで言う、どうしたら?は方法のことじゃありません、どのような結果になったら助けたことになるの?って聞いてるんです。

鬱が治ることが助けたことになるの?

妹さんが家族円満になったら助けたことになるの?

息子さんが社会復帰すれば助けたことになるの?

 

ここまで当ブログをよ~く読まれた方は僕が何を言いたいのかおわかりですよね。

そうじゃないんだってことです。

彼ら彼女らはたった今、必要な体験をしているところなんです。

だから余計な手出しは無用。

僕は鬱が悪いなどとは思いません。

薄情なようですが、その人は鬱という体験をしているだけだと捉えます。

 

ただし、もし助けを求められたのなら話は別ですよ。

その時には話をじっくり聞いてあげてください。

一切批判せず、判断せず、ただ共感してあげてください。

この時にはこういった方法論も必要なのです。

そして彼らの癒しとなってあげてください。

癒しとなるとはただそのままを受け入れるということです。

 

彼らがその体験中によろめきそうになったのなら、横で支えてあげてください。

でもその道を歩くのは彼ら自身。

あなたが手を引っ張ることじゃありません。

「あ、そっちの道へ行っちゃダメ」などと言わないことです。

その道の先にだってきちんとワンネスはあるのですよ。

 

誰かを助けたいと思うあなた、あなたは相手の人生を完璧だと見ることが出来ますか?

出来ないのなら余計な手出しは無用です。

そういうことすると、二人してワンネスの迷路に入り込んでしまいますよ。

往々にしてスピリチュアルに目覚めた人、目覚めかけた人は、困っている人に力を与えようとします。

これ間違い。

依存を生んじゃうから。

その人が自分自身で強くなるように補助してあげることこそが大切なのです。

 

僕もインドから帰ってきてしばらくはそういう状態でした。

いや、ごく最近までそうだったかもしれません。

そういう人間はね、本人には分からない我臭がするんですよ。

「他人を助けてあげなくちゃ」という臭いがね、周りの人間にとってはとても鼻につくのです。

 

「わたしは知っている、あなたは知らない。

だからスピリチュアルに関するいろんなこと教えてあげる」

これ余計なお世話。

僕も得意げになって一杯失敗しました。

 

苦しみの渦中にいる人には、なかなかかける言葉も聞いてもらえません。

そういう時はただ寄り添うだけです。

そのうち、その人に少しでも余裕が出てきたら、静かに語りかけてごらんなさい。

人がなぜ生まれてきたのかについて。

幸せについて。

 

苦しんでいる人に僕たちが出来る最大のことは、まず自分自身がとても幸せな状態でいること。

そして苦しんでいることも完璧なのだと見ること。

それ以外にはありません。

本当に幸せな人はね、言われなくったって他人の人生に余計な嘴はさまないのね。

 

この画像は、僕に「ツキを呼ぶ魔法の言葉」をくれた鳥取の先生からお正月に送られてきたものです。

この人、幽体離脱はするし、小人に黄泉の国へ連れ去られそうになるし、こういうのばかり呼び寄せます(笑)

でも、スゴクない?

金龍

2012.1.6

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「May I help you ? ~余計なお世話~」4件コメント

  1. 勝無 より:

    開けましておめでとうございます。
    そんな時も、笑顔で居れて、自分の中で慎みと分かち合いの心があれば、自然体でワンネスの実践となり、お互いが救われるんですよね。

  2. Dr.KAPPA より:

    勝無さん
    あけましておめでとうございます。
    今年も宜しくお願いします。
    〇〇があれば、幸せになる、ワンネスになるというのは少し違うような気がします。
    僕はどの人もこの人も、例えどのような状態であれ、幸せであり、またワンネスの大切な一側面を演じていると見ます。

  3. KANAKO より:

    先生!昨年はどうもありがとうございました♪
    今年もすてきなメッセージ、楽しみにしてます~。
    先生のクリスマスプレゼント「シャングリラからの伝言」を、同じ愛媛出身の奈良で働いている友人に、お正月帰省中に「読んでみたら?で、気が向いたら先生に会いに行ってみたら?」って貸してあげました。
    これも余計なお世話ですよねきっと。。
    ただ私は、絶対読むべき!とは言いません。気が向いたら、面白いから読んでみてね、、だからいいのかな。それとも逆依存を生んでいるのでしょうか。。。
    友人が奈良にいる間に、友人といっしょに先生と晩ご飯をご一緒したいなあなんて夢見てます。
    さぞ楽しいことでしょう!
    話は変わりますが、ここ一年で、自分の中で確認できたことがあります。
    私は現在36歳ですが、母の影響で10代後半から、スピリチュアルに親しんでいました。
    でも自分のまわりの人は当然のごとくスピ系のことは無関心。
    まわりの人達がみんなスピ系だったら、意識の高い生活が送れるんだろうなーとか、さぞ楽しいだろうなーとか、思っていました。
    まあでも愛媛にもスピ系の方はたくさんいるもので、1年前に、そんな人たちにどっぷり浸かる機会を得ました。
    しばらく毎日のようにそのコミュニティと交流しましたが、
    結局最後に感じたのは、俗にいう「スピリチュアル」な人との交流が自分を楽しくさせる訳ではないということでした。
    スピ系の人たち(私も含めて)ただの人間で、快・不快がありました。
    そして最近は、同じくスピ系の方で、悩める人々に個人セッションしたり、リーディングをしたりする複数の友人に出会い、交流を深めました。私へ話すことやメッセージがさすが素晴らしく、私にはどこか憧れの存在ような存在でした。
    でも、親しく交流し、お互いに話をすることが多くなった中で考え方や行動の仕方を見て、違和感を感じることが多かったのです。
    この一連の交流は、私にとって最高のギフトでした。
    最後に自分の中でさとったことは、
    「外の世界の誰の言葉も真実ではない。素晴らしいスピリチュアルリーダーの言葉も。
    自分がその瞬間に感じることのみが、自分にとって一番正しいこと。逆に、自分意外の誰も、自分を救うことはできないし介入できない。
    みなそれぞれ、自分の思うやり方でスピリチュアルの道を進んでいる。それを尊重し、さらに協調し合うことも出来る。」
    こんなことが頭でなく、経験を通してしっかり感じることができました。
    (もちろん、アセンデッドマスターがたの素晴らしい教えが私の人生を支えてきましたし、これからもお世話になります)
    分かりにくい文章を長々とすみません。
    今年はさらに気づきのある年になるような気がしています。
    普段の何気ない生活の中で、たくさんのギフトを開けていきたいと思っています。

  4. Dr.KAPPA より:

    KANAKOさん、コメントありがとうございます。
    「シャングリラからの伝言」を友人にあげるのは余計なお世話ではありません(どやさ、笑)
    ま、気に入らんかったら読まないでしょうからね。
    ご飯いつでも誘ってください。
    で、まさにKANAKOさんが最後にさとったとおっしゃる通りでして、当方もそれをずっと強調してきたつもりです。
    本当にスピリチュアルな人というのは、毎日を幸せに感謝しながら生きている人のことを言います。
    セッションをする人のことじゃないのであります。

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