なんや、わかったような、わからんようなタイトルですが、本日は昨日も言いましたように僕のごくプライベートなことを書いて、一昨日から続く次の次元への旅の始まりのお話を締めくくりたいと思います。

あ、それと昨日たくさんの”おめでとうコメント”を頂きました皆様にこの場を借りてお礼を申し上げます。

大変うれしかったです、ありがとうございます。

昔は50歳と言えば完璧なオッサンというか、むしろジジイに近いオッサンだったのに、いざ自分がそうなってみると相変わらず落ち着きのない僕がいたりなんかします。

200年生きる予定の僕とすれば、仮に今の平均年齢を80歳とした時に、現在ようやく20歳に到達し成人したばかりということになります。

これを言うたらうちの嫁さん「ハタチどころじゃないわ。10歳くらいじゃ!」とおっしゃいました。

藍が「お母さんに迷惑かけないでね」と書いてよこしてくる所以であります。

 

しかし、あれです。

藍に対しては過去にひどい叱り方をしたことをいつか謝ろうと思っていたのですが、こいつくらいの霊格の天使になると、こちらがそういうふうに思っているだけですでに許してもらってる気がします。

そもそも親の捉われに気づかせるために生まれてきているのだから、親がそうと気づけば、もうあとはそれでいいのかもしれません。

 

僕の核心は認識であり、インナーチャイルドとして「自分を認めてもらうこと」と「他人を認めること」が課題として植え付けられたと書いたことがあります。

でも、それだけではないのです。

 

僕くらいの年齢の人間は誰でも小さい時に一回くらいは「おまえは橋の下で拾うてきてんで」と言われたことがあるのじゃないでしょうか。

僕はよく、一番上の兄に言われました。

 

歯科医師国家試験を受験する際には戸籍謄本を提出する必要があります。

僕も本籍地である奈良県五條市から取り寄せて、提出する際に何気なく見ると続柄が長男になっているではありませんか!

僕は長男、次男、長女の次の三男坊の末っ子です。

え?これどういうこと?

下宿に帰って電話で母親に問い合わせると「ああ、そのことについてはいずれちゃんと話すわ」と言われたっきり。

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結局、親父が死んだ時の通夜の時に叔父が口を滑らしてわかったのですが、僕と上の三人の兄弟とは母親が違ったのです。

僕は後妻の長男だったというわけです。

まあ生みの親じゃなかったわけでもないし、兄姉とも血はつながっているわけですから、このこと自体は別に僕の中では問題ではありませんでした。

問題はその後におこったのです。

 

どうやら親父の遺産相続の時に、母にとっては実子は僕だけですから、僕が有利になるように配分をコントロールしようとしたと兄(長男)は言うのです。

今となっては、何が本当かわかりませんが、母はそういった事をやりかねない人なので、それから僕は母の事が大嫌いになりました。

僕はね、えこ贔屓されるのが何より嫌です。

飲食店に行って、僕が常連だからと僕だけに特別なものを出されるなんてまっぴらです。

そういう性格だから、よりによって遺産相続(大した遺産ではない)という大事な場面で、おまけに上の兄貴たちは自分が産んだ子じゃないとなれば、なおのこと、公平にするべきでしょう。

もしかしたら兄貴の勘ぐりすぎなのかもしれませんが、とにかくそれ以来、僕と母の関係は一変しました。

 

そもそも僕は帝王切開で生まれていますから、そして両親ともに年とってからの子供ですから、どちらかというと恵まれて育てられてきたし、母親から離れられないというのを刷り込まれているわけです。

その上で、その出来事ですから、自分の中で気持ちの収まりがつきません。

今でこそ、そういう許せない気持ちはほとんどありませんが、一時は本当に許せないという言葉がぴったりの感情をずっと持っていました。

そして、「いつかそのことについて話すわ」という約束はいまだに履行されておりません。

 

僕のどこかで人任せなところ、自立心のないところ、口で偉そうに言っておきながら母親を頼っているところが、自分でもたまらないくらい嫌だったのですが、最近ではそういう深い部分での感情は薄らいでいるようです。

 

今度は父親の方に目を向けてみましょう。

僕は平成7年に父親亡き後の大阪の診療所を引き継ぎました。

その後、平成11年に長兄が膵臓癌になり余命三カ月とのことで、奈良の兄の診療所を継ぐことになりました。

この兄の診療所の継承に関しては本当にいろいろと苦しいことがあったのですが、そのお蔭で義理の姉とは修復しがたい関係となり(今では僕の方はそうでもない)、電車を待っている時にホームからふと飛び込んだら楽になるな、という考えがよぎったのもこの時です。

 

人はとんでもない苦労をしょい込んだ時に、孤独になると自殺を考えるようです。

誰も自分の事を親身に考えてくれない、もちろん親や兄弟も、となるとさすがに耐えられなくなります。

妻や子供はいましたが、当時の僕はそれらは僕が守るべきものであって、僕を守ってくれるものではありませんでした。

妻は妊娠中で広島に帰っていましたから、そんな難しい話を相談できようはずもありません。

 

さて、とにかくも兄の診療所を引き継いだ僕は、それまでと全く違う患者数にとまどいました。

大阪で診療していた時の倍くらい来られるのです。

兄は古いタイプの診療というわけでもありませんが、とりあえず保険診療がメインです。

僕は今でもそうですが保険と自費が半々の診療スタイルです。

全く違うのです。

待合室が一杯になり、順番待ちのカルテが溜まってくるけど、目の前の患者さんにすることは今までと同じような治療。

どう考えてもうまく回るはずがありません。

でもね、保険診療といえど一日30人以上来患されると、自費治療をやっているより、おもしろいくらい口座にお金が貯まっていくのですよ。

この時はうれしかった。

通帳を眺めては今まで味わったことのない満足感を感じていました。

自費治療は経費もかかるので、結局そんなに残るものじゃありません。

 

ところが、そのうち患者さんがどんどん減ってきだしました。

おまけに引き継いだスタッフまで辞めていきました。

理由はひとつ、「前の院長と違う」

これは応えました。

だって、兄と僕が違うのはしようがないじゃん。

さりとてどうすることもできず、皆が離れていくままだったのですが、唯一救いだったのは大阪からついてきてくれた衛生士がいてくれたこと。

彼女がいなければ、どうなっていたかわかりません。

 

その一時のことを除けば、僕は平成7年に開業してから今まで経済的にゆとりがあったためしがありませんでした。

とにかくいつもギリギリで成り立っているような状態です。

今はワンネスビルの土地と建物で一億を超える借金を抱えていますから、当然と言えば当然ですが。

でもとりあえず必要な分だけは、いつもどこからか与えられてはきました。

なぜこういう恥とも言えることを書くのかというと、これこそがこの3日間のブログを締めくくるのに必要な話だからです。

 

我が西塔家は藤原不比等の長男で藤原南家の祖、藤原武智麻呂(むちまろ)を先祖と仰ぐと伝えられています。

武智麻呂が先祖やったら、不比等は違うんかい?という疑問が当然あるのですが、そのあたりの事はよくわかりません。

奈良県五條御市栄山寺の西塔跡にうちの屋敷がかつてあり、ある時皇族の誰かに習い事を教えたことがある人がおり、その際に西塔の名前を賜ったとされています。

うちに金の鳳凰で彩られた杯があるのは、そのせいだと聞きました。

 

ところが、僕の曽祖父かその前くらいの人が、悪い遊びを覚え、大阪の南新地に行ったっきり帰ってこない。

そのうちどんどん持っていた田畑、土地が売られていき、挙句の果てが今の僕です。

血やねぇ(笑)

 

祖父の事は全く知りませんのでおいといて、父はお金の事には無頓着でした。

国民皆保険になったばかりで、待合室には患者さんが溢れかえっている、診療が終わるのはいつも夜の11時位で、下手したら夜中に急患が表の戸をドンドン叩いていた時代です。

お金はそれなりにありましたが、それを運用するとか、保険に入るとか、そういうことを考えない。

そのせいで、長兄が開業しようとした際に父に保証人になってもらおうとしても、銀行とそういう取引がないから保証人にもなってもらえないで、ずいぶん苦労したそうです。

 

それを受けた長兄は(次兄は整形外科医で勤務医)、僕から見た限りではお金には執着したというかシビアでした。

僕がまだ大学院の時にミナミで一緒に飲んだ帰り、兄が「開業医の値打ちは金と〇〇や!」と言ったのを聞いて、随分反論したのを覚えています。

〇〇が酒だったか女だったか、あるいは別のものだったか忘れました。

でも彼は死んだあとも、きちんとそれなりの財産を残していったのです。

これは病床で長兄が次兄に言ったのを聞いたのですが、「あのなぁ、よう考えてみたらな、俺も結構それなりの財産残したなぁと思てんねん」

もうあと1カ月くらいの時です。

でもね、52歳で死んじゃったのよ。

妻子残して。

彼は自分の長男を脳腫瘍で12歳で亡くしており、その際の抗癌剤で随分本人も家族もつらかった思いがあるので、自分の時は延命処置を選択しませんでした。

それでも最後は骨と皮になった状態で、診療所引き継ぎの連絡をする僕に「治、もう僕なぁ、あんまり考える心の余裕ないねん」

それが最後の僕との会話だったかな。

 

長々と何が言いたいかというと、僕の血筋を順にみていってください。

何か共通したものがありませんか?

曽祖父は遊びにくるい、財産を失った。

父は真面目に働いたが、お金を増やすとか安心のために貯蓄するということがなかった。

自分の心の置き場所は囲碁と軟式テニスだった。

兄は父の姿を見て、逆にお金にシビアになった。

立派な財産を築き、家族が安心できるだけのものを残こしたが、死んでしまった。

彼の心の置き場所はゴルフだった。

僕はその延長線上におり、仕事は真面目でよく遊ぶしよく学ぶ。

その一方で霊的な人間の成長にも興味がある。

しかし経済的にはゆとりがなく、僕の心の置き場所は酒と競馬である(?)

 

ま、ここまで極端に言い切ると兄や父達から文句が出そうですが、大筋において西塔家の男性が何をしているかというと、”豊かさについて”体験しようとしているのではないかと思うのです。

その中で、どうやら僕は「真に豊かであるとはどういうことか?」というのを統合する立場にいるようです。

そして、亡くなった兄も父も曾祖父も、僕の知らない御先祖様も、皆が僕を応援しているに決まっていますよねぇ。

自分たちが統合できなかったものを、自分の息子や孫やひ孫が成そうとしているわけですから。

血というのはそういう意味合いがあります。

 

僕はずっと兄貴なんかいい加減な治療して、金だけ残して何やっとんねん!と思っていました。

いい加減な治療というのは彼の名誉のために言っておきますが、僕の作文というか、そう思いたかったということです。

それでいて、経済的に立派に自立していた兄の事をどこかで僻んでいたのかもしれません。

でも、実はそれも言い換えれば僕のためにしてくれていた、僕の行く道を残しておいてくれたともとれるわけです。

以前書きましたが、JOYヒーリングの田中天皇がお父さんが残した莫大な借金を30年かかってようやく返し終え、仏前でその報告をしている時にふと「あ、これは俺の借金だったんだ」と気づかれました。

僕もまさしくそのことが腑に落ちたのです。

3日前に、このことが分かった時には、さすがに嗚咽しました。

僕の父は平日は仕事で忙しかったし、休みの日はテニスでしたから、あまり親しく接したとはいえないかもしれません。

こういう場合、成人してから経済的に困ることになるのは御承知の通り。

しかし、僕のそういう父に対する想いも兄に対する想いも、すべて癒され、感謝の気持ちで一杯になりました。

 

ということで、メチャクチャに長くなっておきながら、いまだ締めくくれていないので、最終章は明日におあずけ。

ここ3日間のまとめを書きます。

今日は節分かぁ。

2012.2.3