学びは体験に伴って
インフルエンザが流行しており、当院の受付の工藤さんもやられて4日間休み、子供たちも妻も順番にやられ(医者行かないのでインフルエンザかただの風邪かわからない)、僕は今週シャングリラミーティングなもんだから極力注意していましたが、昨日熱が出だし身体がだるくなってきました。
咳は全くないのですが、やっばいなぁ、と思って濃縮ステビア飲みまくって、普段摂っている糖質栄養素のサプリを倍量にして、今朝はかなりマシになりました。
ところがトイレに行くと水様便です。
昨日はアップルパイひとつと、うどんしか食べてないので、なんでかなぁ?と思っていると嫁さんが「浄化ちゃうの?」
あぁ、そうかも。
ちなみにうちの嫁さん昨日、「ところでこの”カッパのサンポ”と”シャングリラからの伝説”とどう違うん?」
おまえね、シャングリラからの伝説て・・・・・
僕がこのようなスピリチュアルの世界に足を踏み入れて6年が経ちました。
シャングリラミーティングではそのあたりのお話を少ししようと思っていますが、今僕がこのようなメッセージを書けるのも、6年間の間の様々な体験があったからです。
その体験の中には、生まれてからそれまでの間のことを冷静に振り返るということも含まれています。
「聖なる予言」では第一から第九までの予言というかメッセージを主人公がペルーを旅しながら、ひとつずつ見つけていき、そこに書かれている通りの事をすぐに実体験するというように書かれています。
ひとつずつ、順番に、体験し、腑に落としながら、です。
僕も考えてみればそういうふうに来たのであって、たとえば1年半前に書き始めたこのブログにしたって、その中で書かれていることの本質は何も変わりませんが、細かいところでは違っています。
以前推薦していたものを、最近になって否定しがちになり、そんでまたごく最近になって否定していては将来溶け合ってワンネスにならない、心がつながらなければ、と書いたりしています。
それらは矛盾する、あるいはコロコロ変わり過ぎ、と言われるかもしれませんが、ここはあくまでもブログですから、僕の思った事感じた事を正直に書いているだけです。
その中で皆さんは僕の中の変化、ものごとの捉え方の変化をみることになります。
ここに書かれていることで僕の体験に裏打ちされていないものなど、ほとんどありません。
それがあるから皆さんは読んでいて一人の男のスピリチュアル・ジャーニーを疑似体験できるわけです。
僕が体験しながら思った事を書いて、普段の生活をして、また体験を通して何かが腑に落ちて、の繰り返しでして、それが書かれているのですね。
自分の人生での出来事を逃げずに体験している人が読めば、このブログは腑に落ちる事ばかりかもしれません。
考え方とか行動の仕方が同じじゃなくても良いのです。
生き方の本質が共感できるということでしょうから。
しかし、自分自身の体験が不十分でいつも逃げようとしたり、あるいは戦ってみたり、なんとか上手く処していく方法を探していたりする人は、これを読んでも読んだだけということになりがちです。
わかりやすく書いているつもりですから、頭では理解できるでしょう。
でも自分の人生で段階を踏んできちんと体験を通して学んでいないから、結局はうまくいきません。
その辺に掃いて捨てるほどある願望実現の本と同じに堕してしまいます。
ここでいう学びとは勉強ということではなく、書かれているメッセージを実際の智慧として身につけるということです。
人間の霊的成長などというものは上昇直線は描きません。
波上でありながら全体としては上向くというふうです。
僕もちょっとは成長したなぁと思っては、次の瞬間にはイイ気になって天狗になって本人はわかってないんだけど客観的に見れば落ちていってる、ということがしょっちゅうです。
でも自分に正直に生きていれば、きちんと上向きに成長していきます。
体験こそが素晴らしいのです。
そこでの感情こそが知りたかったことなのです。
次にどういう行動に出るのかが創造なのです。
人生などこれの繰り返しであり、そうだと認識している人だけが幸せでいます。
認識していない人は、その状態でありながら(幸せな人が幸せだと感じる状態)不幸せでいます。
良い母親になりたい、愛される娘でいたい、信頼できる友人でいたい、もっといくと親友は毎年家族で海外旅行に行ってるのにうちはそれどころの話じゃない等々。
あなたはいったい何になりたいの?
あなたは、あなたになりたいのじゃなくって、他人になりたいの?
自分らしくあるのじゃなく、他人らしくあるっていうこと?
あるいは標準的な人間ですか?
動画でも説明していますが、標準という概念あるいは比較という行為があなたの体験を邪魔します。
ついでに言っとくと、先日のブログ「ワンネスの扉」では心がつながらないと将来ワンネスにならないと書いており、動画の中でも「自分の個性を大切にするのなら他人の個性も尊重しなければならない」「違うことこそが宇宙からのプレゼント」みたいに書いてあるわけです。
僕が、ああ、そうだ、と気づいて腑に落ちたことですでに本やホームページに書いてたって事、実は多いんです。
こんなもんです。
他人を否定しない、尊重するというのはワンネスなんて言ってる人間にすればごく当然のことです、概念とすればね。
ただ、それが本当に心の底から自然にできているかとなると話は別。
そうしなければならないと思って、そうするのなら嘘というか無理があるでしょ。
僕が先日、「僕の中の愛が拡充した気がします」と書いたのは、こういった経緯の元になっているのです。
自分に正直におれば常に揺れ動きながら(自分が変わるという意味ではない)自然に本当の自分を思い出していく、という流れです。
決して自分の中を愛で満たさなくちゃいけない、と思って努力した結果じゃないということです。
当院は経営的にいつもプラスマイナスゼロのような状態だと書きました。
もっとお金が動いていて、年に一度従業員を海外に慰安旅行に連れていくところだってあります。
これではいけないと思って経営セミナーに参加したりして、医院のシステムを変えようとする人たちもいます。
確かにそれで経営的には成功するかもしれません。
あくまでも経営的には、です。
うちは今ね、すごくいい感じになってきました。
本当に文字通りワンネス歯科になってきつつあります。
3年半前に西塔歯科をやめて”ならまちワンネス歯科”にした時は、それはあくまでも目指すものでしかありませんでした。
ワンネス歯科って何?と聞かれても、正直言って返答に困ってしまう。
もちろんサイドメニューの当院の紹介に書いてあるようなことは謳ってはいるのですが、果たして当院がその状態かというとまだスタートラインに着いたところでしかない。
今は実態としてワンネス歯科になりつつあります。
楽しいです、仕事していても患者さんと接していても、スタッフと接していても。
ワンネス歯科がワンネス歯科としてあることが大切なのであって、他の医院と比べてどうのこうのというのは全くのナンセンス。
それをやっている限り、当院の存在価値そのものが揺らいでしまいます。
自分が自分らしくあり、自分のところにやって来る体験をただ体験する。
すると幸せを感じる。
極論すれば、もしあなたが今幸せでないと思うなら、”自分らしくあり”のところか”ただ体験する”のどちらかで踏み外してるんでしょう。
2012.2.7