許さない気持ちと言葉~体験はすぐにやってくる~
今朝、久しぶりにスタッフをきつく叱りました。
当院では、ある程度以上の外科処置をした場合、必ず患者さんに緊急連絡先として僕の携帯番号を教えるようにしています。
現行の診察券にはすでにそれが印刷されているのですが、古いタイプをお持ちの方には受付で書いてお渡しするようになります。
一昨日、右下に3本のインプラントを予定していた手術がありました。
CTでは下歯槽管と呼ばれる太い神経や血管が入っている管と下顎の骨の頂上との距離があまりない部分も認められ、とにかく慎重にオペを進めないとそれこそ先日のNHKで放映されたようにトラブルを起こす可能性がありました。
患者さんは僕の叔母で長年、義歯をはめていましたが、ずっと出来るものならインプラントにしたいと言っており、今ならCTによる診断もかなり正確だし、長さの短いインプラントでも複数本あれば長期的にも安定することがわかってきたので今回の施術に至ったのです。
CTはかなり参考になるけれども、実際の状態とはやはり多少なりとも違います。
いざオペをしてみると、一番神経との距離が短い部分では「こりゃ、ヤバイな」と思わせる感じだったので、
そこへのインプラントの埋入は断念しました。
もちろんそこにインプラントがある方が力学的に安定するのですが、そのメリットよりもリスクの方が高いと判断したわけです。
うちでは現在ほとんどドリルで骨を削るという手技は用いませんが、仮にそうしたとして、神経の1mm手前までドリルで掘り進めたとしましょう。
この時点では神経を傷つけてはいません。
ところがここにインプラントを埋入すると、中の血液とかを神経方向に押し込むことになり、これにより神経が圧迫されて麻痺を起こす可能性があるのです。
だからドリルで神経を傷つけずに骨を削れたからといって、インプラントを無事に埋入できるとは限らないということです。
今回は危ないと判断し、撤退。
結局2本のインプラントを埋入し、院内でかなり長い時間ガーゼで圧迫止血をし帰ってもらいました。
もし、その日の深夜とかに緊急の事態が生じた時、担当医の僕が直接診れないかもしれないけど、適切な指示を与える義務があります。
叔母ですから僕の自宅の番号は知っていますが、僕が外出していたら困るわけですし、一般の患者さんなら尚更です。
過去に一度、抜歯した後、(ちょっと考えられないのですが)感染して腫れた患者さんがおられ、休診で連絡が取れなかったと言われたことがありました。
それ以来、そういう処置をした方には必ず僕の携帯を教えるようにしているのです。
ところが今回、受付の工藤さんは叔母に番号を教えるのを忘れていました。
今朝そのことがわかり、僕としては久しぶりにきつく怒ったわけです。
何事にも、絶対にやってはならないミスというのがあるもので、今回の事は下手をすれば術後の出血とかで患者さんの一命にも関わりかねないことですから、院長とすれば当然怒ります。
注意じゃありません。
瞬間的に怒るわけです。
「今度やったら許さへんぞ!!」という言葉が口をついて出ました。
今の僕的には普通出ない言葉です。
僕は怒りが持続しないので、その感情はその時だけのものでした。
というより、怒るという行為に許さないという言葉を添えただけで、実はあまり何の感情もなかったのです。
単に職務上、許されないということを伝えたかっただけ。
その後すぐに僕のハートの右上側が痛んで、イヤ~なモヤモヤした感じが広がっていきました。
ああ、許さないというのは言葉だけでもこのようになるのだ、と思いました。
言霊の威力たるや恐るべしです。
その感覚はしばらく持続しましたが、そもそも許せないという気持ちがあるわけではないので、そのうち治まっていきます。
今回の場合の許さないというのは当院的には、次に同じことをすれば減給するよということです。
僕が開業してからスタッフのミスで給料を減らしたのは過去に1,2度だけ。
それは診療用器械や備品を誤って壊してしまったとき。
一度目は注意だけで、次やったら給料から差し引くよ、と伝えておき二度目が起きた時にその通りにしたということです。
まあ、あれですね、他人を許せない気持ちをずっと持ち続けると結構心臓にくるもんやなぁ、と痛感するのです(右側が痛んだのは相手が工藤さんという女性だから)
普通なら、さっきは言いすぎたみたいにフォローするのでしょうが、僕、そのあと全然普段と変わらないですから、すぐに元通りです。
おそらく許さないと言われた方も、そのネガティブなエネルギーはどこかに飛んじゃってるんじゃないでしょうか。
さて、この僕の体験の仕方をどう思われますか?
怒るという行為をしているのに怒りの感情がない、というのがひとつのポイント。
元来、怒りというのは本来の感情じゃない、と僕が常々言う所以であります。
僕もお釈迦さまに近づいたね、こりゃ(笑)
今週月曜日から始まった遠隔ディクシャ・ヒーリングにおいても、同様の体験がありました。
依頼者の溜めこんでいる感情を僕が自分の体に感じるわけです。
それも含めての今朝の体験はここ数日のブログおよび遠隔の延長線上にある気がします。
そして一番のポイントは、僕は自分も含めて起こっていることをただ眺めているだけという姿勢にある、ということ。
怒っている自分も、怒られている工藤さんも、どちらもスクリーンの中の役者にすぎない。
なもんで、あれから1時間もすれば、そのことは二人にとってどうでも良い過去の話であり、外科処置をした患者さんには院長の携帯を教えることを忘れない、ということだけが残るのであります。
ああ、俺って人生の達人かも(笑)