悟りと宗教

だいたいが僕、涙が溢れるような神とのつながりとか、先のブログのような体験をするのって、前日にえらいこと飲んでいて、二日酔いのまま外の明るい所へ出た時なんだよなぁ。

もしかしたら全部幻覚かも・・・・・(笑)

 

歯科的なアクセス数アップを目指すて言うたしりからこのタイトル!

ちょっと触れておかざるを得ないことがあります。

成瀬氏は「悟りのプロセス」の中で修行によりその境地に達することができると記しておられます。

バガヴァンも僕も悟りの状態は与えられるものであり、いくら努力したって無駄と言っております。

さて、どちらが正しいのでしょうか?

 

成瀬氏がご自身の悟りの状態をどこまでと認識されているのか知りませんが、僕は意識状態が非常に高く、かつ現実をきちんと生きておられる素晴らしいヨギだと思っています。

彼は死と背中合わせの非常に厳しい瞑想をヒマラヤでされています。

瞑想をしているわけですが、時折落石などがあると、それはそれで避けなければいけない。

きちんと二つの違う次元を生き分けておられるわけです。

インドの聖者と言われる人は僕は実際に知らないので何とも言えませんが、成瀬氏が正しい師の元で修行をすれば悟りの各段階を昇っていくことは可能だと言うのなら、そうなのかもしれないと思います。

成瀬氏は修行と瞑想を同一には使っていませんが、ここは曲者です。

シッダールタ(釈迦)は苦行を放棄し、ただ瞑想していた時に悟りの状態を与えられました

この瞑想を修行というのなら、修行により悟りを得たと言えるのかもしれません。

他力か自力かという話ですね。

 

こんなこと僕には本当はどっちだってエエ話なんですが、これはこれでひとまずおいといて、例えばヒマラヤ山中で悟りのかなり高いレベル(仏陀をはるか超えるくらい)までいった聖者がいたとしましょう。

で、彼はそのままヒマラヤ山中で亡くなりました。

人々は彼が山に修行に行ったことまでは知っていますが、その後どうなったかは知りません。

人知れず亡くなったわけです。

それ、何なん?

意味無くねぇ?

 

あるいはこういうこともあります。

そのレベルまで行った行者が、数十年ぶりに下界に降りてきた。

混雑した街を歩いていると、すれ違いざまに女の人に足を踏まれ、そのまま彼女は通り過ぎようとした。

「何すんじゃ、このアマぁ!」

という考えが頭をよぎり、そのことに失望した行者は、再びヒマラヤを目指したが、年をとり過ぎていたため途中で肺炎で死亡。

なんてね・・・・。

 

要するにね、人は悟るために生まれてきたんじゃねえってぇの。

日々を生きて創造するためにいるんだよ。(ちょっと2ch風に、笑)

悟りが目的になるとかえって道を踏み外します。

それは毎日をきちんと生きていった上での結果として得る意識状態。

成瀬氏はそのへんが絶妙なバランスをとっておられるようにお見受けします。

一度、会って話してみたいもんだ。

 

実はね、生まれて初めて東大寺二月堂に行ったのがこの正月。

一昨日には初めてお水取り、お松明を見てきました。

たまたま招待者用の券みたいなのを頂いたのです。

テレビで見るのと違うね、やっぱり。

さっむいなか、始まるのを待ちながら考えたんです。

「いったい、ここの坊さんたちは何のためにいてるんやろう?」って。

 

これからは、すべての宗教が立ち行かなくなります、とずっと書いてきました。

それはね、あらゆる宗教は、ある一つの大きな真理の違う側面をそれぞれが強調して成り立っているということに気がつかずにきたからです。

これからはそのことが認識されるようになりますので、宗教とて統合という流れからは逃れられません。

その先にこそ本当の真理があるのです。

逆に言うなら、「うちとこは違う、特別や」みたいなことを言う眠たい宗派は雲散霧消するでしょう。

 

で、その際に今の神社仏閣、教会、モスク等々やそこにおる僧侶たちはどうなるのでしょうか?

いきなり失業ですか?

もちろん時代の流れについていけない人たちもいると思います。

まずは日本で言うなら今のように神仏に仕えるという、もっともらしい大間違いから離れるようになるでしょう。

だって神も仏も人間に(僧侶が言うような形で)仕えてもらう必要などこれっぽっちもないからです。

神仏に仕えるとは、その意図どおりに生きるということ、あらゆることを体験するということです。

これを世俗から離れて特別な場所でやろうとするからおかしなことになる。

本来ならこちら側(世俗側)で意識が高くなった人をそこに送りこむべきなのです。

寺に籠って悟りなどと、吹けば飛ぶようなものをして、ちゃんちゃら可笑しいっつうの。

 

世界中の宗教施設をまとめて聖堂と呼んでおきますが、そこは祈りの場でなければなりません。

祈りの場とは、あらゆることに神の意思を見る場のことです。

意識の非常に高い人たちがそこに集まり、時空を超え祈る。

あらゆる存在たちが、その最も崇高にして真実の姿であるように祈る。

もちろん、一般の人たちもそこに行って祈ることもあるでしょう。

偶像もあっても良いかもしれません。

その方が都合が良いのならなんだっていいじゃん。

大切なことは、そこで見る神仏は自分自身の姿でもあるということを認識すること。

神仏は決して外側にだけあるのじゃないのです。

 

今も各神社仏閣で東北の復興のための祈りが捧げられています。

そういったことがなくても、普段も世界平和のための祈りが捧げられています。

元来はこうあるべきなのね。

戒名代、厄除け祈願代、水子供養代とかはお笑い以外の何ものでもないのでございます。

そういった普段の高尚な祈りに対して僕たちは寄進をするべきなので、正月に賽銭投げるなんざ(僕もするけど)お下劣極まりないでござ~ます。

 

マクラーレンの店

本文とはじぇんじぇん関係ないけど、こないだ大阪の御堂筋を横断する時に見たマクラーレンの店。

これ、ええねんけど、何するとこ?

何売ってはんの?

F1カーが展示されており、道行く人が皆写メを撮っていきます。

そりゃそうやわ。

ベジレストラン

次に先日のお話会の前に見つけたベジレストラン。

どうです?

ちょっと素敵な感じっしょ。

これが結構流行ってるのよ。

淀屋橋のカフェ

ほいでから、アガペが溢れた淀屋橋のカフェ。

ここね、水出しコーヒーの器械がこれだけ並んでるのよ。

スゴクね?

でも水出しはアイスコーヒー限定だそうです↓

それにしても、こういうところで普通にブレンド頼もうと思っても、メニューでなかなか見つからへんのはどういうわけ?

カフェラテとか、それ頼まなアカンみたいに最初に書いたあるし。

で、「すみませんけど、普通のやつてどれですか?」

「はい、ブレンドですね」

まるで、オヤジやんけぇぇええ!!

2012.3.15

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「悟りと宗教」1件コメント

  1. KANAKO より:

    こんばんは!
    今日の先生の記事で、第十二の予言を思い出しました。
    正に、この世を代表する宗教の統合を描いていましたね。
    現実に、地球最後の世界大戦が始まるとしたら宗教戦争だろうと聞いたことがありますが、まさにその回避策を見ているようでした。
    第十二の予言では、それぞれの教えの特長を互いが認め合い、統合していきますね。
    宗教の統合で思い出したのが、去年の秋に行った、
    しまなみ海道生口島「平山郁夫美術館」の平山郁夫さんの大きな絵です。
    キリスト教、仏教、ユダヤ教かな?の衣装を来た3人が同じカンバス内に大きく描かれ、きっとそれは宗教の統合と地球平和を願って描かれたものだと思います。
    どんどん加速されてますね。
    今日は若干二日酔いな私でした。。
    アガペのカフェで水出し珈琲飲みたい。。

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