至高にあらず、思考の体験
最近くどい位に人の心に寄り添う難しさを書いていますが、これには理由があります。
話の先があるので、少々我慢してくださいませ。
宮城で話そうと思って時間がなかった話。
その話は宇宙の始まりまで戻ります。
”自分は何者か?体験を通して知りたい”
それまではあらゆるものが溶け合っていましたが、まずは思考と感情とにわかれました。
これが”わたし”と”あなた”です。
思考がわたしで
感情(を与えるもの)があなた
と、なってしまったのです。
この時点ですでに人類の誤解の始まりが見られますね。
思考にも感情にも行為というのが内包されており、そのうち行為も分離され三位一体となりました。
見たことないけど、そうなのっ!(笑)
ビッグバンを引き起こしたのは、すべてが溶け合っている中の”思考”要素が
「わたしは何者か?」
と疑問に思ったからです。
よろしいですか?
この宇宙はまず疑問から始まったのです。
次に
「それを体験したい。体験により知りたい」
との欲求がありました。
この順番よくみといてね。
そして幻想というこの世界を作ろうと考えました。
ここではじめて、「体験により自分を知ることが出来る」という期待に打ち震え
大爆発のような喜びとともに、宇宙を作ったのです。(これ、ビッグバン)
つまり
思考→欲求→思考→(未来への期待)、感情→行為
ということです。
時系列ではこうです。
しかし時系列という言葉そのものに語弊があって、単に物事が起こる順序ということであります。
順序=時間の経過 と捉えるのは人間の時に対する固定概念。
言い換えるならこの順序とは原因と結果ということです。
順序に従って起こる各出来事も、原因と結果と言われるものも両方とも同時に存在します。
難しい話ですがそうなのです。
よく観察してみると、人生において結果が先で原因が後という順序で経験していることなど山とあります。
このことは明日か明後日のブログで出てくるので、理解しといてもらえるとありがたいです。
人生ゲームで10マス進んだけど、次に3コ戻るになっちゃった、みたいなもの。
要はどの順序で体験するか、この世界が幻想であるなら、どの幻影を映しているスクリーンにあなたが意識を向けるか?ということであります。
始まりが疑問から起こっていますから、僕たちがつい「どうして?」と思うのは当然・・・・・なのでしょうか?
最初の疑問は「わたしは何者か?」です。
僕たちを普段苦しめる疑問は「あの人はどうしてわたしにこんなことするの?」だったり「わたしって、どうして人に好かれないのかしら?」ですよね?
似て非なるものです。
ここで僕たちは一つの大きな誤解を見ることができます。
医者が病気の原因を探るのは当たり前ですがOKです。
タバコを吸うとか甘いものを食べすぎるとか何かがあって病気になるのですから。
(わからないものは自己免疫疾患とか難病と分類されます)
ところが、僕たちが人生において抱く疑問をみてみたら、何かの原因を探ろうとしているんですが、それもよくよく観てみたらなんと!
実はその原因って自分自身(の物事の捉え方)にあるんですねぇ。
この話は次かその次のブログで詳しく説明します。
自分の捉え方に原因があるのに、自分自身(の性格)だったり他人(の性格)に原因があると錯覚し、そこを探ろうとするからいつまでたっても答えに行きつかない。
迷路に入って出られなくなるわけです。
ふうっ。。。。
大丈夫ですか?
ついてこられていますか?
僕は休憩しながら書いています。
思考の使い方。
それは原因を探るに用いるにあらず。
体験したい現実を創造するのに使うのである。
それにより自分を知るのだ。
あなたが体験するのはあなた自身なのであり、出来事や他人の言動ではない。
あなたは人生という自分の外側にある道を旅しているように見えるが、じつはインナートリップ(自己内面への旅)をしているに過ぎない。
あなたは思考の使い方を誤ってしまった。
それがすべての・・・・原因である。
ということのようです。
思考は知りたい自分を体験するために、その体験を創り出すために、あります。
なぜ?
どうして?
は本来の思考ではないようです。
それは他人との分離感、孤独感、不安や怖れからきています。
次からは、成りたい自分に成るために、望む自分を創造するために、というお話。
では。
2012.6.12