幸子(さちこ)の目は異様だった。

駅のプラットフォームをあるいは改札の方を宙をすべるようにその視線がさまよう。

「和也はどこ?どこに行ったの?」

人にぶつかりながら進んでいく幸子を周囲の人は奇異の目で見ている。

そのうち向こうから避けるようになっていった。

「トイレかもしれない」

幸子は駅のトイレというトイレをすべて探していった。

男子用ばかりか女子用もである。

コンビニ横を奥に入ったところにある男子トイレに躊躇なく入っていった幸子は

大便用の個室の扉を片っ端からドンドンと叩いてまわった。

「奥さん、いったいどうなさったのです?」

ついに幸子は駅員からの通報を受けた鉄道警察に引き渡され、駅長室で取り調べを受けることになったのである。

 

和也(かずや)は家が嫌になっていた。

いや、家というよりは母、幸子が嫌になったのである。

小さい頃は確かに優しかった。そしてそんな母のことが大好きだった・・・はずだった。

いったいいつの頃からだろう。母親が近くに来るだけで胸が悪くなるような感覚になったのは。

特に最近の幸子はひどかった。

和也にベッタリだった。

それでも小学生や中学のはじめの頃はまだ甘えたい気持ちもあったのでよかったのだが、

これが中学も三年生になり今春、高校に入学したらもういけない。

母親がうっとうしくって仕方がなかったのだ。

これを反抗期と呼ぶのだろうか?

違うのではないか、と和也は思っている。

しかし和也自身、母親から距離をおこうとしている自分に少なからず罪悪感を感じているのだ。

あれは確か和也が小学三年生の時である。

短大を卒業した姉が就職と同時に家を出て行ったのだ。

それ以来姉はほとんど家に寄りつかない。

何となく姉と母がうまくいっていないことは感じていたが、まだ子供だった和也はきっと

世間の母と娘というのはこんなものなのだろうと思っていたのだった。

 

紗江子(さえこ)が小学五年生になったばかりの春、家に帰ると待っていたのは親戚のおばさんだった。

すぐに病院に一緒に行こうと言われた。

嫌な予感がしたが、行ってみると案の定予感は当たっていた。

半年前から入院していた母、眞由美が亡くなったのである。

乳がんだった。

胸に何か違和感があると思い婦人科に行き、乳がんの診断を受けてたった半年。

悲しかったが不思議と涙は出なかった。

むしろ父親はじめ周りの大人たちの自分を憐れむ目が嫌だった。

初七日が過ぎ、三カ月、半年と過ぎても悲しみはやってこなかった。

だって、わたしが泣いたらお父さん可哀想だから。

本当に泣いたのは、いや悔し涙かもしれないが、一回忌が過ぎてすぐに父、正雄(まさお)が新しい母親を家に連れてきた時である。

実際には、その場ではなく自分の部屋に帰ってから泣いたのだった。

幼稚園の時、眞由美にデパートで買ってもらった小さなクマのぬいぐるみを抱きながら、泣いたのだった。

その時に、もう何もかもが受け入れられなくなった。

お母さんが死んだことも

お父さんが自分のことを心配してくれていることも

新しいお母さんの不安が入り混じったようなぎこちない笑顔も

何もかもがウソのように思えた。

「強くならなくちゃいけない」

その時おぼろげに紗江子が考えたのは、

とりあえず当たり障りなく新しいお母さんを迎え、

そして大人になったらとっとと自立することである。

しかし、事は彼女が思うほど簡単には進まなかった。

正雄が再婚した次の年、幸子が妊娠したのである。

男の子だったその子は、将来、平和な家庭を築けるようにと”和也”と名付けられた。

正雄は本当は眞由美の名前から一字とって、真也(しんや)と名付けたかったが、

さすがにこれは幸子に対して遠慮した。

中学一年だった紗江子はクラスの友達から聞いて、子供が生まれるためにはSEXをすることを知っていた。

考えられなかった。

どうして父親が見ず知らずの女とそんなことが出来るのか理解できなかったのだ。

更にもう一つ問題があった。

紗江子は最近の女の子にしては遅い方なのだが、中学に入っても生理がまだだったのである。

もちろん保健の授業で習っていたから知識はあったものの、もし家にいる時に生理が来たらどうしようと考えると恐ろしかった。

これは幸いにして学校の休み時間にやってきたので、保健室に駆け込んで事なきを得た。

赤ちゃんの和也は確かに可愛かったが、心から可愛いという気持ちにはなれなかったし、抱くこともなかった。

そして、紗江子もそんな自分が嫌だった。

紗江子は思った。

「ドラマや映画でやっていることって、案外本当なんだ」

自分がその立場になってみると、頭と心がバラバラに動くということを知った。

 

もう7時になるというのに和也はまだ帰ってこない。

いつもクラブが終わったらまっすぐ帰るのに。

夫の正雄は自分にすごく優しい。

義理の娘の紗江子とはお世辞にも仲が良かったとは言えないけれど、

特別ひどい関係でもなかったと思っている。

そして彼女は今は独立しているので、現在家にいるのは皆正真正銘、自分の家族である。

なのに、どうして・・・・?

家を飛び出しながら 「まただ」 と幸子は思った。

「また目の前から愛情が逃げてしまう。 いつだってそう」

「わたしの何がいけないのかしら?」

・・・おそらくこれが幸子が正常な頭で考えた最後の言葉であろう。

自分が靴をはかず、裸足だということにも気づいていない。

そして~

今は駅で三つほど離れた病院の精神科で入退院を繰り返している。

 

「お父さん、わたしのせいかしら?」

紗江子は偶然街で出会った叔母から幸子のことを聞いて、あわてて実家に帰ってきたのだった。

「そんなわけないだろ。誰のせいでもないさ」

「お父さん、いつだってそう。いつも優しすぎて、それで本当はみんなが傷ついていることをわかってないんだから」

「わたしがあの人に冷たい態度をとった時に、お父さんもっと叱ってくれれば良かったのよ」

「・・・・」

「で、あの人はどんな具合なの?良くなりそうなの?」

「いや、お医者さんはすごく時間がかかるだろうと言ってる。気長に構えるしかなさそうだ」

「今、家のことはどうしてるの?」

「和也と二人で手分けしてるさ」

「どうしてわたしに言ってくれなかったの?」

「お母さんはずっと入院してるわけじゃなくって、時々家に帰ってくるんだ」

「・・・・。ご飯は?外食?」

「いや、和也が全部やってくれてる。あいつ結構料理が上手いんだ」

「へぇ、意外」

「・・・・お父さんな、お母さんには悪いけど、今度のことでよくわかったことがあるんだ」

「なに?」

「お父さんは、いやこれは他の父親も皆そうなのかもしれないけど、家庭の作り方ってのをずっと知らなかった」

「・・・・」

「だからな、遅きに失した感はあるけれど、これをきっかけに少しずつ家庭の作り方ってのを勉強してみようと思ってるんだ」

「家庭の、、、作り方かぁ。・・・そうか、そうだよね。誰も教えてくれないもんね、そんなこと。お父さんも知らなかったんだよね」

「そうさ、知らなかった。知らなかったのに作ろうとしてた。というより勝手に出来るもんだと思ってたが、そうじゃなかった」

「わかった、じゃあわたしも一緒に勉強してあげる」

「かまわんけど、誰も教えてくれる先生はいないぞ」

「うん」

「でも、あえて言えばお母さんかな」

「死んだお母さんもね」

「そうだな」

「和也はどうかしら?」

「あいつはあいつで適当にやるさ」

「わたしね、思うんだけど、今はダメかもしれないけれど、きっといつか和也も勉強したいって言うよ、家庭の作り方」

「そう思うか?」

「うん」

 

「ただいまぁ!」

玄関できちんと揃えて脱がれた姉、紗江子のくつを久しぶりに見て、和也はなぜだか少しうれしかったのでした。

2010.9.15