ちなみに昨日のお昼休みに近鉄奈良駅前のJTBに新幹線の切符を買いに行ってたら、天皇皇后両陛下が奈良にお越しになって、僕は生まれて初めてこの目で間近に見ました。

十数年前、広島にいる時に僕のマンションの前を皇太子さまと雅子さまが車でお通りになり、その時もすぐ間近で拝見したことを思い出しました。

 

さてもう一度、例をあげて復習してみましょう。

僕はかつて大学院卒業と同時にカナダのトロント大学への留学の話がありました。Dr.Chandlerという口腔生理学の分野では著名な教授で多数の業績をあげている人でした。

僕は臨床系の講座に在籍していながら研究自体は基礎系の講座にお世話になっていたので、そこの生理学講座の教授からのお話だったのですが、僕はどうしても臨床をしたかったので、この話はお断りしたのです。

ではもし僕がその時留学していればどうなっていたでしょうか?

当然その後の人生は大きく変わっていたでしょう。

妻とは広島の歯科医院に勤務していた時に知り合ったので、彼女とも結婚していないでしょうし今の子供たちも生まれていなかったでしょう。

ディクシャやヒーリングとも出会わなかった可能性も高いです。

じゃあ、そのような人生は今の意識の覚醒途中にある人生と比べてダメなのでしょうか?

 

さあ、ここでもう一度、僕たちはなぜ生まれてきたのか?人生の目的とは何か?という話を思い出す必要がありそうです。

僕は自分が何者なのかを、体験とそれに伴う感情を通して知ることを目的として生まれてきました。

そして自分自身を外に向かって表現し、それに対する反応を通してまた自らが何者かを深く知るのです。

それが目的ならば、僕が海外に留学し基礎研究の道を選ぼうが、日本にいて臨床系の講座に残ることを選ぼうが、どっちだって関係ないわけです。

その中で、自分が何者かを知ればいいだけの話ですから。

 

今めちゃめちゃええ話をしてるんで、よう聞いてくださいね(思わず関西弁)。

 

「こういった場合、どうすればいいのでしょうか?」という質問に対して、相手に「ああ、いいアドバイスをもらったなあ」と思わすようなことを適当に喋るのはそんなに難しくありません。

最も手っ取り早い方法は「そのことを〇〇というふうに捉えてみたら、あまり腹も立たないんじゃない?」のように論点のすり替えをやるんです。

これね、もっともらしいけど一番バカバカしいアドバイスなんですよ。

なぜなら次の悩みにぶつかった時に応用が効かないので、「え~っと、これはどのように考えればわたしは楽になるのかしら?」と考え、思いつかなければもう一度カウンセラーの元へ行くということになっちゃうからです。

よくあるでしょ、こんなの。

これお金取ってやってる人がいるからタチが悪いですよね。

 

また自分の例で恐縮なんですが、どこかでも書きましたが僕は本質を語って(勝手に僕が本質だと思ってるだけですけど)理解しない奴、理解しようともしない奴は「アホや」と思いますが、そう思う自分の傲慢さに嫌気がさします。

「どうしたらいい人になれるんだろう?」と思うわけです。

で、ここで人生の目的という大きな鉄則を引っ張り出してきて当てはめてみましょう。

これはチャート式の赤いやつみたいなもんです(古い話やからわかるかな?)

僕は自分はある議題に対して高い見地、高い視点から見て意見を述べていると思っています。

そしてそのことが認知されないことに対する、苛立ちのようなものとともに人を小馬鹿にする感覚や理解してもらえない孤独感など、すべて言葉にするのは難しいのですが、まあそのような雑多のものが入り混じった感情を味わうわけです。

ところでその時の「こいつら全員アホや」という考えは、単にそのようなマインドと呼ばれるエネルギーを僕の頭が拾っているだけなので、僕の考えじゃないのですが、よろしいですか、ここポイントですよ。

なぜそのようなマインドを僕の頭が拾うかというと、僕が今までに身につけてきたトラウマなどのせいで(お蔭でともいえる)僕自身の細胞がそういった考えを引き寄せるような振動を発信しているからです。

僕の細胞はそのような時に「そうか、僕はすごく限られた見方をしていて、みんな色んな意見があるんだな」というマインドを拾うような振動は微塵も発していないのですね(笑)。

ではもう一歩踏み込んでみて、僕はなぜそのような振動を発するようなトラウマを身につけてきたのでしょう?

それは、そのような体験を呼び寄せて思いっきり体験したかったからに他なりません。

つまり僕は全体の一部分として、その全体の人に認められないという部分を体験しているのです。

それによりどのような感情がわき起こるのか体験しているのです。

そして次に自分をどう表現、創造していくかによりまた自分のある側面を知るわけです。

人に認められない感情を味わうと、次にどういった自己表現が可能なのか?ということですね。

その表現方法に良いも悪いもありません。

僕を一部として持つ全体はあらゆることを知りたいのです。

ここで「人に認められない」というのは、裏返すと「人に認められる」ということで、「黒を体験しているから白がわかる」のようなもので、やっていることは認識という大きなカテゴリーになるわけです。

わかりにくいかもしれませんが、僕は人に認められないことを体験しながら同時に人に認められるとはどういうことか?というのも体験しているのです。(これ、少し難しい)

もう少ししたら学会のため横浜に向けて出発します。

ということで、つづく

2010.10.8