歯科の世界でもよくあるのですが、例えば新しいテクニックを学んで実際にやってみたけど上手くいかなかった場合に、人は往々にしてそのテクニックやそれを開発したドクターを批判しがちです。

ところがよく見てみると、その人がオリジナルのやり方じゃない方法でやっていたり、その人の技術そのものが未熟であったりすることが多いのです。

ディクシャは無体験というのも含めて(まともなギバーがやったものなら)全く何の影響も与えないということはありません。

本人がそれとわからないだけの話です。

ただ、こういったものは相性も大切なので、自分に合わないと思ったら速やかにそこを離れればよろしい。

僕だってアンマ・バガヴァンとは一定の距離を置いています。

今日はそのことについて書いてみましょう。

 

まず、アンマ・バガヴァンを信奉する多くの日本人が彼らのことを自分のお父さん、お母さんと思っていることに「はあ?」と思います。

別にそう思うのは自由ですから構わないのですが、「なんでこの色の黒い人たちが僕らの父と母やと思えるのか僕にはわからん」のです。

僕に頻繁に流れてくる強烈なエネルギーがバガヴァンを通してとは、とても考えづらいです。

僕はいつも何かもっと大きなもの、宇宙の何かとつながっている感じがしています。

確かにインドのセミナーはすごく役立ったし、素晴らしいきっかけであったけれども、それらはあくまでも僕と宇宙(ディバイン、ハイヤーセルフ)とをつなぐきっかけでしかなかった気もします。

これは4年前、インドで覚醒のセミナー中もそうだったのですが、時々バガヴァンってあんまり頭いいことないなあ、と思うことがあります。

彼のスピリチュアルな説明は大変分かりづらいし(これは日本語訳の問題ではありません)、そしてあるテーマを質問された時にそれを一方向からの答えしか出さないので、非常に不十分な答えになっていることが多々あります。

ただし、そのやり方が?と思うことがあるだけで、彼がすべて知っているのも、ワンネスへの純粋な思いも、2012年問題にフォーカスしていることもすべて分かっています。

ただ何か同じテーマでバガヴァンの説明と「シャングリラからの伝言」を比べられたら一目瞭然でしょうが、「シャングリラからの伝言」は始めから日本人向けに書かれており、分かりやすいことを第一義としているので理解のし易さには格段の違いがあります。

 

もうひとつ、現在最も僕が???なのが49分間のサダナと呼ばれるものです。

サダナとは行のことですが、何をするかというと7×7分間、「AUM SAT CHIT ANANDA(オーム サッチターナンダ)」と唱え続けるのです(インド人の場合)。

その意味は「わたしは存在、意識、至福である」ということであり、日本人はその日本語の方を唱えます。ここがね、分かっとらんのですよ、バガヴァンは。

これは「般若心経のツボ」をお読み頂くと分かりやすいのですが、確かにその呪文は宇宙の真理ではありますが、その真理を唱え続けてもそれが腑に落ちるふうには働かないのです。

こんなの常識!!

すべて言霊、音霊の話でして、「AUM SAT CHIT ANANDA」がタミール語か何語か知りませんがとにかくその言語を母国語として持つ人に対しては、強力な音霊として脳の回路を開くように働きますが、そうじゃない人がその呪文を唱えても全く効かないし(インド人の過去世を持っている人は別)、ましてやそれを直訳した「わたしは存在、意識、至福である」はいわずもがなであります。

英語の訳なんてね「I am existence , consciousness , and bliss」でっせ。

とんだお笑い草です、僕に言わすと。

 

般若心経を百万回唱えても、この世界の実相が空と無であるということは腑には落ちません。

ただ頭でそうだと理解しているだけです。

あの最後にあるマントラはサンスクリット語を話す人のためのもので、それをそのまま異国に持ってきても全くナンセンスなのです。

残念ながら玄奘三蔵はそのことが理解できていませんでした。

いつも言うんだけれど、悟った人の意識状態を言葉にして、それを学んだところで何にもならないのですよ。

要はその状態にあなたがなるかどうか、という話であります。

 

そしてこのサダナをする前にやることがあって、30分位音楽に合わせて踊るのです。

これには二つの意味があって、ひとつは無心に踊ることによって自分の中を空っぽにして次のマントラの内容が沁み込みやすくするということ。

もうひとつは神様というのは人間が歓びに満ちて踊るのを見るのが大好きだということです。

ただね、これは時と場所を選んでやらないと知らない人が見たら本当にカルト集団になっちゃいます。

僕はこれが面倒くさいのもあって好きじゃありません。

今度の神戸のワンネスフェスティバルだっておそらく第2部ではこれをやるのだろうと思うと、午前中のブース展示が終わったら帰ろうかと考えているくらいであります。

 

僕はアンマ・バガヴァンもそれを信奉する人も否定する気はありません。

また、「わたしは存在、意識、至福である」というのもその人がそれが好きなら全然OKだと思います。

ただこういうことをディクシャギバーでもある僕が大っぴらに言うとみんな「え~?」という顔をされるので、困ったものだなあと思うのです。

こういったことは、自分の心に素直に従うのが一番!

ただね、ディクシャのおかげであらゆることを既成概念で判断することなく、そのまま体験するようになり、いわゆる幸せな人というのが増えているのも確固たる事実なのであります。