Looking Back and Forward~回顧と展望~
今思うと、インドでの講義中はメモ禁止なので、すべて休憩時間に部屋に帰って思い出しながら書いているわけです。
それにしては、細かいことまで日記に書かれていて驚きますね。
きっとこの頃は今よりも脳細胞の数が多かったんでしょう(笑)。
やたらめったら便の話が出て恐縮なんですが、でもね、たくさんの人数で行っているとはいえ原則無言の行。
ましてや初めてのインドです。
孤独というのではないのですが、大勢の中で自分がポツンといる感覚。
食べ物が合わないというのは特にまだ慣れない間はすごくつらいものがあるのです。
僕たちよりもっと前に21日間コースに参加した人は、強制的に肉体の浄化を図るためレイヒャムという薬草をとらされて、それはもうヒドイ下し方をするそうです。
トイレまで這って行って、便器を抱きかかえたまま離れられないという状況になるそうなんですね。
おむつが必要とまで言われていた位です。
それに比べればずい分マシなわけですが、でも非常に不安だったのは確かです。
この次の年の12月に懲りもせず10日間の上級コースに行ったのですが、その時は最初から最後までずっと快食快便。
ご飯は何でも美味しく頂けたし、ウンコなんか赤ちゃんがするみたいな黄色をしていました。
あんなウンコ少なくとも僕の記憶にはありません。
無言の行とは言うものの、しゃべる人はしゃべるし、途中何度もカルキセンターのスタッフやダーサジーが注意するのですが(部屋にも”沈黙を守ること”と張り出されたくらいです)そういう人は言うことを聞きません。
せっかくインドまで来てるんだから、ちゃんとやらないともったいないと思うんですが。
それに、しゃべるのは本人だけじゃなく周りに対しても迷惑なんですね。
でもね、イタリア人だけは別。
あいつらずーっと大声でしゃべってました。
おまえら、どれだけ陽気にこのコース受けとんねんっ!
またケビン(中西研二氏)の書いた「悟りってなあに?」を読まれた方は、同じ21日間コースでも僕たちが受けたものとはずい分違う印象を持たれたことと思います。
それはケビンはVIPでマンツーマンでのコースだったことと、ケビンのその時の意識状態からして、細かく自分の内面に入っていくということにそんなに時間を割く必要が無かったのだと思われます。
ですからバガヴァンはいきなりケビンにワンネスの状態を体験させるようにもっていきました。
僕たちもケビンもどちらもそれぞれに必要なことを体験したということでしょう。
さて、問題となるのはこうやってディクシャギバーになった人と現在の日本での2日間のセミナーでギバーになった人はどう違うのか?ということですね。
別にそんなこと問題にしなくてもいいんですが、でも誰だって思いますよねえ。
今年の初めに日本でたった2日の通いのセミナーでもギバーになれるというのを聞いた時は、そんなにギバーの数だけ増やしてどうすんねん!と思いました。
確かにギバーが増えればディクシャを受ける人が増えるわけですから、人々はよりマインドから解放され覚醒していくスピードは速くなるでしょう。
でも実際のところ、2日間のセミナーを受けられた人がこの21日間コースの体験記を読まれれば明らかに違うことがおわかりになるはずです。
勘違いしないで頂きたいのですが、僕は違うということを言いたいわけであって、優劣を競っているわけではありません。
バガヴァンが2012年に向けて焦っているのもわかるので、大急ぎでギバーを増やしていることが間違っているとも思いません。
ですからここでは、何が大きく違うのかを明示し、2日間のコースがより良くなるためにはどうすれば良いかについて考えたいと思うのです。
僕はその後インドに行っていないので、単なるディクシャギバーでありトレーナーの資格はありません。
トレーナーとは自分でギバー養成セミナーを開催できる人のことですが、僕はそのことには興味がないので今のところトレーナーになるために再度インドに行くつもりはありません。
最も大きな違いで、僕が一番強調したい点は3週間、その前後の行程をいれれば約1カ月間、日本を離れるということです。
これは何を意味するかというと、仕事であれ家事であれ普段自分を縛っているものから物理的に解放されるということです。
これらのものは常に我々を「・・・しなければならない」という概念でがんじがらめにしているので、そこから解放されるというのはマインドから解放されやすくなることを意味します。
これがね、決定的に違うのですよ。
例え泊まりの2日間や3日間セミナーであっても、常に家庭のことや途中になっている仕事のことを考えているようでは、なかなか集中して自分の内面に入っていけないのです。
今、「自分の内面に入る」と言いました。
僕はこれこそが非常に重要だと考えています。
いわゆるインナートリップ(自己の内面への旅)ですね。
僕はケビンのセミナーしか知りませんので、他のトレーナーさん、特に著名なトレーナーの方々がどのようなコースをやってらっしゃるのか全く存じません。
しかしどのようなコースであれ、3日ではやれることなんて知れています。
どうしてもギバーを養成するということが主眼になってしまいますので、自分自身をまずはじめに癒さなければならない、というところには時間が割けないわけです。
ケビンは自分のセミナーで2,3時間、この自分を癒すというところに時間を使います。
およそ「究極のアンチエイジング」で書いたような誘導の仕方をします。
ていうか、あそこで書いたのは実際問題ケビンのやり方をパクらしてもらいました。
ケビンはそんなことゴチャゴチャ言うような人じゃないので、まあアリなんです。
インドにおいては、たとえば「あなたが人生において傷つけた人、あなたを傷つけた人の感情を見つめてみましょう」と言われて、講義中にプレゼンスの支えのもと自分の人生を回顧し、見つめることによってそこにある様々な感情を癒していくということをするわけです。
で、休憩時間になりますよね。
部屋でベッドで寝るもよし。
講義室で横になってもよし。
瞑想ルームで静かにもう一度、自分の内面に入っていってもよし。
外に出て、赤い土と、白い壁と、青い空を見ながらボーっとするのもよし。
つまり、そのセッションの後に自分に深くしみ込んでいく感覚がこれは圧倒的に違います。
いかにケビンのセミナーであってもあれには勝てません。
そしてそれは、21日間のコースの最中であり、まだ1週間も10日もそこに滞在するというのが、これまた静かに自分と共にいるという点において、違うわけです。
僕が日本での短期のギバーになっている方を見た時に、明らかに相違点として見るのはそこです。
つまり本人が自分自身をまだよく見つめていない。
完全に癒されないまま人にディクシャしようとしている。
これは本当にいいのか?
これでは単なるディクシャ製造機じゃないか。
そう思うのは当然でしょう。
トレーナーの方でさえ自身が癒されていない人がたくさんいらっしゃいます。
以前は必ず溜まっている感情を浄化する(サムスカーラシュッディ)ということをやっていました。
これをやらないと準備コースとしては認定されませんでしたし、インドでのセミナーでも同じことをやりました。
それくらい大事なことなのです。
これをやっている人とやっていない人では全然違う、これは僕は断言できます。
ディクシャを何度も受けると確かにマインドの呪縛から解放され、どんなことでも「ま、いいか」というふうにいつまでも物事にこだわらなくなっていきます。
その結果、「今、ここ」に集中するようになります。
確かにそうなんだけれど、その人の中には過去の精算されていない感情が蓄積されていて、それがそれより先のプロセスの進行の妨げとなってしまうのです。
自分を愛せない人が人を愛せるようにはなりません。
自分を許せない人が人を許せるようにもなりません。
そんなことは起こり得ないのです。
それらはなろうと思ってなれるようなものではありません。
気がついたら何となくそうなっていた、という類のものです。
ただ、もしそこを目指すなら、過去の感情の癒しは絶対必要条件です。
それは自分だけではなくそこに関わった他の人の感情もであります。
トレーナーの方にはそこを肝に銘じて頂きたいと思うのであります。
僕たちが目指すのはディクシャギバーになることではありません。
人々をディクシャを通して目覚めさせていくことでもありません。
それらは手段であり、僕たちの目標は、というよりすべての生命の目標はワンネスなのです。
ワンネス、つまり性格の違うものがお互いに認め合いながら共存し、そしてその中でそれぞれが体験を通して自分を知り、表現し、至福の状態にある、それこそが我々の目指すものなのです。
そのためには、過去の傷ついた感情をそのままにしておいていいはずがありません。
その精算なしに先へ進もうと思っても無理があるということをわかって頂きたいのです。
次に違うと思うことは”教え”です。
インドでのコース中、ダーサジーも言ってますが、教えに捉われてはいけませんが、教えは明確さを与えるために必要なものです。
そしてバガヴァンの教えは、相手に最もわかりやすい形で伝えられる必要があります。
そのまま教科書を読むようにしてしゃべってもダメなんです。
インドでは我々が日本人ということで主に仏陀の例を出して話すことが多かったです。
あるいはダーサジー自身の体験談として。
僕はいつも言うことですが、「ここで書いているようなことを覚えようとしないでください。こんなものはただの言葉に過ぎません。目的とするところは、これらのメッセージはあなたの中にも眠っているのだということを思い出してもらうことにあります。その意味ではこれらの”教え”は大切なものでしょう」
僕が覚醒の道をたどるのに非常に大きな役割を果たしたのが、3週間診療所を閉めたことでした。
その中で自分がずっと、良い歯科医としての自分を世間に認めてもらおうとしていたことがわかったのです。
自分というアイデンティティを歯科医という職業に重ねていたのですね。
歯科医というのは僕の一つの顔に過ぎず、表現の場の一つにしかすぎません。
そこを勘違いしていました。
それもかなり長い間。
すると肩の力が抜け、僕の歯科医としての表現はより大きな自由度をもちだしました。
本当に大切なことはね、愛するということです。
この世界にあるものすべてが、その対象です。
そう考えるとワクワクしませんか?
愛するものに囲まれているわけですよ。
どうか、目先のことにとらわれませんように。
それと、僕の真意が正しく伝わりますように。
偉そうなことを書きましたが、本当のことを言って、「インド紀行」は日本の2日間コースでギバーになられた方のために、その足らない所を補足するように書かされたという気がしないでもないのです。
21日間コースの疑似体験ですね。
もし、そのような形で読まれた方のお役に立てたのなら、こんな幸いなことはない、というのも僕の本心であります。
2010.111.30