無知の知
かつてソクラテスは自分はこの世界のことに関して無知であることを知っているという点において、知恵をひけらかしている人たちよりはちょこっと違うよ、ということを言ったとされています。
「無知の知」・・・確かに良い言葉ですね。
これを思いついた時、ソクラテスは「やったぜ!」と思ったことでしょう。
当然ながら我々はこの世界のことをすべて知ることは不可能です。
この話を僕に最初にしてくれたのは、中学1年の時の担任の先生でした。
その先生は歴史の先生だったのですが、「ソクラテスの弁明」という岩波新書から出ている本を引き合いに出して説明してくださいました。
僕も早速、学校の帰りに大阪阿倍野にあった旭屋書店に買いに行きましたが、ろくすっぽ読まなかった気がします。
さて、僕はトップページにも書いていますように「皆さんはすべて知っている」というスタンスであります。
ソクラテスの逆をいっています。
ここで言うすべてというのは、宇宙的な真理のことをさします。
人はなぜ生まれてきたのか、自分はどこから来てどこへ行こうとしているのか、ではそのためにいかに生きれば良いのか、等のことですね。
こんなことはすべて皆さんのDNAにインプットされているのに決まっているに決まっているのです。
ですからソクラテスとて、その程度のものなのであります。
しかし、現代の情報が溢れかえっている中で、彼の足元ほども生きるということに関して考えない人の何と多いことか。
僕は宇宙的なエネルギーの元にこういったことに気づき、お話していますが、そのアドバンテージが少ない中でソクラテスは大健闘したと言えるでしょう。
「シャングリラからの伝言」は自分を見つめるということを素直にやった人、既成概念(マインド)から解き放たれるとまではいかなくても、それに縛られてきたということを理解した人には、非常にわかりやすいようです。
一般的に言われるような、その人の学識の度合いなどは全く関係ありません。
むしろそういったものがない人の方が、それこそ言葉が溶けるように体に入っていきます。
あくまでも自分の考えという鎧で自分を守ろうとしている人には、頑として撥ねつけられます。
多くの知識人がこれに属します。
だって、僕の先輩の教授に送ったら「難解でした」って感想がくるんだもの。
僕も以前はそういった人に、なんとかわかってもらおうと躍起になっていました。
考えてみれば、それは傲慢であった気がします。
今はそういう人たちをあまり相手にしていません。
無視するというわけじゃなく、そこにフォーカスをしても時間と労力の無駄なので、自然とその人たちに時が来るのを待っているという状態です。
いずれは必ず全員が目覚める時がくるのです。
本当はほぼ全員というのが正しい言い方ですが。
例えて言うなら、ほとんどの柿が木の枝でどんどん熟していくのに、一つの実だけが熟さずに頑張るなんてことができるはずがないからです。
そのくらい今の地球の波動の上昇は激しいものがあります。
本日は午前中診療で、午後から歯科医師会の新年御礼会つまり新年会です。
さて、どうなることやら。
2011.1.6