The Last Prayer~祈りの本質~
一昨日、当院に本を買いに男性が来られました。
患者さんでもない人が本を買うためだけに来られたのは初めてなので、ちょっと嬉しかったです。
なんでもお嬢さんが海外にいらっしゃるとかで、彼女がインターネットで当HPをご覧になり、おそらく実家がお近くなのでしょう、お父さまに本と皇帝塩を買ってくれるよう頼まれたそうです。
本には署名をするのですが、人の名前を書くのは緊張するのです。
きちんと丁寧にきれいに書かなければいけない、名前というのはその人にとって特別のものだから。
と思うと、上手く書けなかったりします。
また昼前だったこともあり空腹も手伝って、少なくとも苗字の部分は筆が震えてしまいました。
僕は字がどちらかといえば上手い方だと思いますが、種々の事情によりミミズが這ったような字を書くことがあります。
ということで、M.R.さん、ご容赦ください。
さて、祈りです。
祈りというのは一般的に誤って解釈されていることが多いようです。
例えが震災の話で恐縮なのですが、いろんな誤解を恐れずに書きましょう。
でないと言いたい事が、知っておいてもらいたい事が伝わらないから。
僕の物事に対する理解も日々進化しているので、前に書いていることと違うことを書くことはないとは思いますが、より発展していて違うようにみえることはあるかもしれません。
この場合の言霊は英語の方でいきます。
p-rayというふうに区切るとrayは光線のこと。
pが何か?というのはわからないのですが、直感ではprayとは一条の光を降ろすことだそうです。
あるいは光の柱を立てるでもいいかもしれません。
要するに神の意思、神の御心がそこに行われることを見るということです。
震災であれば、普通は「どうか被災者の方々が一刻も早く普通の暮らしができますように」とか「被災地が復興しますように」とかでしょう。
(何度も言いますが、不謹慎の誹りは胸を張って受けます)
厳密に言うならそれは祈りではないのです。
もちろんそのような願いはあって当然です。
ですが、そこには神がそれを実現してくださるかどうかという一種の期待と不安があります。
もしすべてが神の意思ならば、そして神のことを絶対的に信じているのなら、次に起こることに対して僕たちがそのような形で願い事をするのはおかしいわけです。
だって、次の決定も神がするんだから。
そこには我々の介在する余地は全くないという考えがあります。
これ、間違い。
もし神が我々の願いを(どんな願いであれ)聞き届けてくださるのなら、その結果は我々の期待が確実に実現するはずだという信念の強固さに左右されるということです。
つまり我々の祈りの力と方向性こそが問題だということです。
なぜ世界中のあらゆる宗教において祈りという共通の形式が存在するのか?
我々は、神に何かをしてくださいとお願いしているわけではありません。
我々は神の意思をこの物質界で現実化するためにこそ存在するのです。
その神の意思を思い描くこと、それこそが祈りの本質であります。
神の御心が天に行われるのと同じようにこの地上でも行われますように。
それを介在するのが祈りという行為であり、我々は神の意志の実行者なのです。
であるならば、神の意思が何か?というのを理解する必要があります。
今回の震災における神の意思とはなんでしょうか?
原発事故も含めて、その後の日本や世界での動きを見ていれば、いかに勘の鈍い人でもおわかりでしょう。
先日テレビで、「私たちはもう被災者じゃない、復興者なんだ」とインタビューに答えておられるのを聞いて考えさせられました。
ちなみに神というのが宗教臭ければ、宇宙の大きな流れ、向かおうとしているところ、と言い換えてください。
何度も繰り返すようですが、もうおわかりのように祈りとディクシャは違います。
震災で亡くなられた方にモクシャ、被災者にディクシャというのは見当違いも甚だしい。
その方達は目覚める必要もない位、魂レベルでは進化した人たちです。
だからこそ今回の役割を引き受けるという尊い選択をされたわけです。
ディクシャとは人とプレゼンス(狭義の神)とをつなぐこと。
祈りとはそこに神の意思を見ること。
そして天と地をつなぐこと。
人と人をつなぐこと。
神の意思を実現すること。
こういうこと言うのは本当はいけないんでしょうが、この違いを認識していないワンネストレーナーについて、僕があなたの親友なら「そこから離れなさい」とアドバイスするでしょうね。
アッタマ、わりぃ~!
本日は快晴で、良い日曜日だ。
2011.4.17