Whose words vs What words ~人を信じるのか、言葉を信じるのか~
今日は本来「ホームページの意義」というのをお届けする予定でしたが、一行書いただけでフリーズしちゃいました。
ということで急遽、別の記事を差し込むことにします。
人がある事を聞いた時に信じる、信じないというのの根底に往々にして誰がそれを言ったのか?ということがあります。
何を聞いたか?じゃなくって、誰が言ったのかが重要だったりするわけです。
例えば、サイドメニューの論文の所でも書いていますが、虫歯の原因として噛み合わせが大きな役割を果たしているというのは僕の中では常識です。
ところが、歯科界でそんなことはあまり言われたことがないので、歯医者の前で発表しても胡散臭い目で見られます。
東京の青山にこの世界で非常に著名な内藤先生という方がいらっしゃいまして、その方は自分の講演で僕と同様のことをお話になります。
すると聞いている歯科医たちは、そんなことは自分達の常識からするとえ~?とは思うんだけど、内藤先生が言ってるんだからそうなんだろう、と思うわけです。
つまり噛み合わせが虫歯に深く影響しているという事象を聞いているわけではなく、ただ内藤先生の言うことをフンフンと聞いている、僕の言うことは疑って聞いている、そういうことです。
これをアホと呼びます。
賢い人はそんなものの聞き方をしません。
スピリチュアルの世界のことでも、例えば同じことに関して僕の言うこととケビンの言うことが違ったら、普通はケビンの言うことを信じるでしょう。
相手がバガヴァンならなおのことです。
別に江原啓之さんでも船井幸雄さんでもいいんだけど、有名人というだけで信頼感は格段に違うでしょう。
これらの根本的な誤りは、まず「信じる信じない」というその人の生き方のスタンスにあります。
虫歯と噛み合わせであるならば、他の歯科医たちは少なくとも僕や内藤先生のような目で口の中を観察していないわけです。
だったらそこで批判されるいわれはないでしょう。
スピリチュアルリーダーであれば、自分のグループの人たちがそのようにリーダーの自分の話を強く信じるようになっているなら危機感を感じるべきです。
「宇宙人は本当にいるのか?」
「死んだ魂はどうなるのか?」
「2012年の真実」
どれもよく当HPをヒットするものです。
それらのメッセージを書いていながらこういうこと言うのもなんですが、僕がここでどのように書こうが、それで「ああ、宇宙人は本当にいるんだ」とか「自殺したらそういうふうになるなんて、こいつどうかしてるぜ!」とか「ああ、わたしも頑張って覚醒しなくちゃ」なんて思う方がどうかしてる。
真実はあなたの中にしかないのに、他人に聞いたって仕方ないじゃん。
あなたは見たいものを見るので、見たくないものは見ません。
だから僕の目に見えるものとあなたの目に見えるものは違って当然。
「神との対話」のなかで神さんがええこと言うんですが、
Seeing is believing
ではなく
Believing is seeing
なのです。
見たから信じられるのじゃない、信じるから見えてくるのです。
ここでいう”見る”は”体験”と言い換えてもかまいません。
以前そういうことを絶対に信じないツレとお寿司屋さんに行った時のこと。
彼の焼酎のロックグラスを僕が手に持ち、ほんの少し見つめるだけで味がまろやかになる。
一口飲んだ彼は目を見開いて驚き、その後、自分はそんなこと信じないタイプなもんだからすごく悔しがりました。
でもね、彼は味が変化したことは認めるものの、相変わらず「波動を変えた」なんて言っても信じないわけです。
これらはあるひとつのことに起因します。
それはね、神が自分の外側にいるという錯覚
そして絶対的な尺度は自分の外側にあり、自分はそこを旅しているだけという錯覚
いい加減、その錯覚を解かないと。
僕がいつも言うでしょ、内側に目を向けてくださいって。
そこに神がいなけりゃどこにいるの?ってまあどこにでもいるんだけど(笑)
こういう話はスラスラ書けます。
2011.5.7