時々下記のメールフォーム(コメント欄の下のアドレス)より質問を頂いて、答えを返信しようとするんですが、メールが返ってきてしまうことがあります。

おそらくは送信者側の携帯などのメール受信に対するフィルター設定(ドメイン拒否等)によるものだと思われます。

昨日もドコモからメールをくださった方への返信が送れませんでした。

僕がメールを頂いて返事をしないということはあり得ないので、もしそういうことがあればご自身の携帯やパソコンの受信設定を変更した上で再度送信してください。

仕方がないので、昨日メールを下さった方への答えをここに書くことにしますが、これは本日のタイトルと内容が重なるからであって、このような答え方はこれっきりにしたいと思います。

 

「わたしはこの世界に何を表現しに来たのか?そしてそれを知るにはどうすれば良いか?」というものです。

まず、この質問には一つ間違いがあって、何を表現するかはあなたが決めるのであり、何か表現するものが決まっていてそれに気づくというものではありません。

何を表現するかはあなたの感情と思考が導いていくでしょう。

何を体験しに来たのかはおおよそ決まっています。

それをどうすれば知ることが出来るかということを(これはどこかで書いてる気もするんですが)お話しましょう。

 

あなたの名前は端的にそれを表します。

ただ名前はあなたの体験のそのまだ奥にあるもの、それを表しているような気がしてちょっと深遠なテーマです。

また愛の反転としての憎しみ、喜びの反転として悲しみ、許しの反転としての怒り等々、今現在のあなたの現状、あるいは今までの人生で繰り返し嵌ってきたことを冷静に見つめると見えてくることもあります。

というか見えてこなければおかしい。

要するに現状の対角線上に行き先があるということです。

 

本屋さんで何げなく手にとった本、あるいは図書館に行ったら急に一冊の本が本棚から落ちてきた、テレビをつけたら何か心に引っかかるものが画面に現れた。

これらもよくあることですが、あなたの気を引くことが起こったのならそこに注意を向けてみるべきでしょう。

ただこれらはすべて、あなたが例えどんな生き方にしろ、とことんやり切っていかないと起こりづらいようです。

自分が何を体験しに来たのか?

それを知りたいと願ったら、あとはその疑問は放っておきなさい。

すると必要なタイミングでヒント(答えではない)が現れるようになっています。

 

あなたはある部屋の前に立っています。

そこの扉はすでに開いており、中を見ると霧が充満していて何も見えない。

あなたはその部屋に入るのを躊躇します。

そして他に開いている扉はないので、そこに入らざるを得ないにもかかわらず、その部屋の向こう側に何があるのかを知ろうとします。

これ、絶対に無理。

あなたにある選択肢はその五里霧中の部屋の中に入っていって、向こう側へ部屋の中を進むだけ。

ただそれだけです。

ある程度以上進むと霧が晴れてくる、そういうシステムになっております。

システムの変更は今のところ一切効きません。

行くしかないのです。

 

これと少し関連してお話しておきたいことがあります。

投稿論文でも紹介していますが、虫歯の原因は物理的レベルでは細菌ではなく噛み合わせだというのが僕の見解です。

たとえば上の前歯の歯と歯の間に虫歯がある。

ただしその隣り合っている歯の片方にあるだけで、接しているもう片方の歯はきれい。

もしね、虫歯の原因が細菌だけなのだとしたら、この現象は起こり得ないわけです。

だって、歯と歯が接しているところに細菌がいるんだから両方の歯が虫歯にならないとおかしいでしょう。

ということは、虫歯になった歯には、ならなかった歯にはない何か特別の状態があるはずだというごく当然の帰結にいきつくわけです。

その特別な状態が細菌が歯の中に侵入しやすい状況を作り出している。

じゃあその特別な状態とは何か?

という思考の動きです。

 

木造の家があったとして、シロアリはどこから巣食うでしょうか?

構造的弱点、すなわち風呂場や台所や重たいものが置いてある部屋の下、水気や重量により木材が微妙にたわんだり亀裂がいきやすい所からに決まっているのです。

それと同じことが虫歯でも言えて、噛み合わせのバランスがわずかでも崩れていて、ある歯のある部分にだけ力が集中するような状態が続けば、そこのエナメル質に亀裂が生じ、そこから細菌が侵入する。

だから隣り合っている歯でも虫歯が出来たり出来なかったりするのだ、という論理のどこかに矛盾や飛躍があるでしょうか?

それよりも何よりも、そういうことを長年疑問にすら思ってこなかった歯科界や歯科医たちが僕には信じられない。

 

僕の見解が正しくても間違っていてもそれはどちらでもいいのです。

要は「なぜ隣り合う歯同士で違う結果が出るのか?」という命題が提出されなかったことが問題だと思うのです。

なぜこうなるかというと、そりゃあんた、今の愚かな教育システムにあります。

科学というのはたとえ人文科学であろうと社会科学であろうと事実の観察から始まります。

観察の結果、疑問に思うことが出てくる。

「なんでだろう?」

そこで答えを探すべく色んな本を読んだり人に聞いたり考えたり、いわゆる勉強をするわけです。

知りたいから必然的に興味を持って勉強をする。

今の教育は最初から知識の詰め込みをします。

これは科学のあり方として正反対のことをしています。

だから勉強が面白くない、そりゃ当然の話です。

 

僕が虫歯と噛み合わせについて思い当たったのは、広島の横山歯科で働いている時でした。

ここは自費診療が中心だったので、一人の患者さんの治療におよそ一時間くらいかけますから、じっくり口の中を観察し考える余裕があったのです。

10分や15分で一人の患者さんを診なければならないのなら、そんなことは不可能だったでしょう。

ただここで注意すべきことがあります。

まず口の中を観察して疑問に思って理由を考えるわけですが、スッと思いつかなければその疑問は心の片隅にしまっておきます。

無理に答えを出そうとしないこと

そのうちに「あっ、もしかしたら」と閃くことがあります。

その閃きを念頭に置いて、また次から観察を続けていくとどうやらその閃きは正しい気がする。

その時に初めて仮説が出来上がります。

その仮説を持ちながら、さらに観察を続けていき目の前の現象に照らし合わせた時にどうなのか検証を続ける。

どうやら一切矛盾がないし、反証を示すようなものも見つからない。

ここで初めて自分の中での真実となるのです。

これこそが科学的と呼ばれるべき学究の徒の姿勢です。

先に教科書ありきではないということです。

 

最初の話に戻りましょう。

自分が何を体験するためにやって来たのか?

それを確定するに際しては慎重である必要があります。

間違った答えを出すとそれに縛られる恐れがあるからです。

正解を出しても縛られるかもしれない。

もっと核心を突くとね、あなたがその答えを知っていようが知っていまいが、あなたはその体験をまさしく今現在体験中なのですよ。

だったら何を知る必要がありますか?

いま、ここに集中する以外に何がありますか?

 

そういうことです。

2011.5.31