安穏な生活

奈良から近鉄特急で京都まで約37分、京都から新幹線で名古屋まで約37分。

なんじゃそりゃ?

非常に興味深く為になるセミナーでしたが、そこで久しぶりに会った横浜の口腔力学研究会のメンバーにも「先生、歯科の記事ほとんどないじゃないですか」と言われたので、見とけよ、そのうち山ほど書いたるわい!

およそ440名の参加で大盛況はいいんだけれど、名古屋駅からの地下鉄でも感じましたが、関西の人間とすれば周りを名古屋弁で固められると違和感大。

たった40分位の新幹線やと缶ビール買う気にもならんわ。

 

行く途中、確か岐阜あたりだったと思うのですが、山と田んぼと集落があるのを何気なく見ていた時に、「ここに生まれた人たちが代々ずっとこの土地に暮らし続け非常に調和のとれた状態で何世代も血を受け継ぐということをしていたとしたら一体どうなるのだろう?」と考えました。

あらゆることを体験するといっても、完全に調和がとれている状態の人々しかいないのです。

そして日々生かされていることに感謝しながら、喜びに満ちた生活をしている。

ん~、としばらく考え込んでしまいました。

 

例えばいまだにひっそりと伝統的な生活をしているアメリカやオーストラリアの原住民がいたとして、彼らの存在意義はなんなのだろう?

自分たちの中には分離や疎外感が一切ないわけです。

そうすると、この人たちはそれを自分たちの集団と他の集団との間で味わうことになるのではないだろうか?

つまり分離から統合へという壮大なゲームを現在我々はやっているわけですが、その分離は必ずしも自分たちの中になくても良いということです。

他の社会がそうであるなら、それを通して自分たちを体験できる。

先ほどの岐阜の集落の例で言うならば、彼らはテレビや新聞などのニュースを通して分離や怒りや悲しみを間接的に体験できる。

その中で自分たちの調和を保ちながら、外の世界の調和も願うというふうです。

 

2012年をはるか通り過ぎて、地球が緑と調和を取り戻した時、僕たちはその先どこへ行くのでしょう?

調和を体験するためには不調和がなくてはそれとわかりません。

でも地球人類全体がもうその時は笑顔なのです。

さて?

 

実はね、陽の反対としての陰、調和の反転としての不調和、確かに対角のものがなければ今体験していることが何かがわからないのですが、それをその時に実際に体験する必要はないということです。

調和を体験中に地球のどこかに不調和がなければならない、ということではない。

それらは概念として存在するだけでいいのです。

地球の歴史上、かつて不調和な時代があった。

それに苦しんだ人々がいた。

あるいは今も宇宙のどこかに不調和が存在する。

それだけで良いのです。

 

でなければ、少なくとも地球上においていつまでもワンネスにならないじゃんねぇ。

 

講演会場で後ろの席に座った口腔力学研究会の会長のF先生。

「今日は晩御飯を家で食べるの?」というメールが、息子さんから来たそうです。

奥さんは子供を通してご主人に連絡したわけね。

「だって、うち夫婦の会話ないもんで」

僕は「え~?だったら生活費渡すのも手渡しじゃなくて、奥さんの口座に振り込んだらよろしいやん」

「うち、そうしとるで」

「・・・・・・・」

ここ、笑うとこやったのに、マジ・・・ですか?

2011.6.20

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