一週間スポーツ記事を見ていたら、必ず誰かが故障しています。

この事実をよく見てください。

成長期の子供にスポーツをさせるのが、体に良いのか悪いのか。

スポーツはすべて不自然な、あるいは偏った動きを伴います。

一見、筋肉が逞しくなったり、運動能力が向上したりするので勘違いしやすいのですが、それらは鍛えたからそうなったわけではなく、日常生活以上の活動を無理強いさせられるから防御的に変化したとも言えるのです。

心臓の心室肥大みたいなもの。

それは病的なんです。

スポーツやってた人が長生きか短命か?というような議論はあまり意味がないので止めておきましょう。

それにはもっと別の要素が関わってくるから。

ここでいうスポーツは運動とは別のものですよ。

 

スポーツの原点、仮にそれをオリンピックに求めるのなら、あれは人間としての運動能力における可能性や限界を探るものであった、なんてこと本当に信じてますか?

あんなの下手すりゃ奴隷を使った御主人様同士の勝ち負けゲームですよ。

今でもそうなんですが、女性が参加できるスポーツというのは限られていますよね。

考えるに、スポーツというのは元来男性の運動能力や体力における優位性を強調したものとも言える。

かつての女性が女神であった時代から男性優位の社会へ移行していった、それを確固たるものにするのがそれであったような気がします。

だからスポーツと学業は両立しないと言われるのかもしれません。

はるか昔、男性は知力の劣ったものとされていましたからね。

 

世の中からスポーツがなくなれば、もしかしたら戦争もなくなるんじゃないか?

これはあながち極論とも言えません。

今の社会で子供が最初に経験する競争は、スポーツ(多くの場合駆けっこ)だからです。

運動の優劣を競う・・・・皆さんは、この当たり前に行われている様々な行事(運動会でもプロ野球でも何でもよろしい)に対して何の違和感も覚えないくらい既成概念として刷り込まれているのですが、僕は最近イチローを見てもこいつアホちゃうか?と思うのです。

なんで一流のスポーツ選手が即ち偉大な人間みたいになってんの?

他人ははスポーツ選手とその精神性とを重ね合わせて、人間として素晴らしい云々言うんだけれど、人を打ち負かして成り立っているような仕事が素晴らしいわけないやろ!というのが僕の見解。

確かにスポーツで感動することがないといえば嘘になるけど、でもそこにある日の丸を背負っていることや、お気に入りのチームという感覚を全部取ってしまっても、なおその感動がありますか?

激減するでしょ。

要するに代理人立てて、その人の勝利を自分の勝利と仮想して喜んでいるだけです。

実に馬鹿げています。

このことを馬鹿げていると皆が思えるような日が、そろそろ来てもよさそうなもんなんだけど。

 

僕たちが本当に感動の涙を流すのは、何らかの形でワンネスという感覚に触れた時だけなのです。

人間そうなっているんですよ。

つまり勝者と敗者を作っているようなゲームの中で感動するのは、偽物のワンネス感覚。

ワールドカップで日本代表が強豪相手に一回戦を勝ち上がった。

その時、日本人という統一の感覚で皆は泣きます。

でもグラウンドの向こうでは、格下の日本に負けてどの面下げて国に帰ろうかと茫然自失となっている相手チームの選手たちもいるのです。

これ見て、本当にうれしい?

 

ネイティブ・インディアンやアボリジニーたちの中には、このような勝敗を決めるゲームはありません。

そんなものの何が面白いのかがわからないのです。

だって嬉しい人と悲しい人を作るんですから。

むか~し、日本もそうだったんだけどなぁ。

「神様のゲーム」とはトランプゲームのことなのですが、参加者全員が協力し合って、一つのゲームを終了に持っていくという遊びです。

そこには勝者も敗者もいません。

敢えて言うならゲームが無事終わったのなら皆が勝者。

 

よくビジネスの世界でWIN&WINの関係ということが言われます。

これどこか非常に胡散臭いです。

当院で「シャングリラからの伝言」の本をお買い求め頂いたり、あるいは個人セッションを受けられたりしますと、その売上金はすべて「そらぷちキッズキャンプ」に寄付されます。

思うんですが、皆が皆、東日本大震災に寄付してしまったら、元々寄付金で成り立っているような施設は苦境に立たされるでしょう。

そこも少し考えた方がよさそうですね。

さて、お客さんはお金を払い本やセッションを得るわけですが、同時に間接的であっても寄付をしていることになります。

なぜならお金を頂く際に必ず寄付する旨をお伝えしているからです。

そして僕は、実質無料で他人に奉仕しながら、なおかつ直接寄付をする形になる。

「そらぷちキッズキャンプ」財団は、寄付金をもらいながら、僕たちに相互扶助という感覚というか喜びのようなものを与えてくれる。

誰も優位でないし、誰も劣っていません。

ここまで書いて、明日のネタを思いつきました。

では、また明日お会いしましょう。

2011.6.30