日輪の遺産
妻が最初に図書館でハードカバーを借りてきてすごく面白かったらしいので、書店で文庫本を買いました。
最初面白く、途中だるくなり、真ん中くらいから最後までは一気。
日本軍がマラカニアン宮殿から奪ったマッカーサーの財宝にまつわる話ですが、そこでは終戦時とバブル崩壊後の日本を行ったり来たりしながら、死ぬまで上官の命令を待ち続けた者、財宝にまつわるあるものを守ろうとする者、いきなりその遺産を託された者、そしていまだそこに眠り続ける日本の矜持を守った幼い魂たちが描かれています。
僕は終戦前夜の東京があんなに大変なことになっていたとは知りませんでした。
以前ご紹介した「永遠の0」とはまた違った面白さがあります。
オススメ。
生きて虜囚の辱めを受けず
この言葉の元にどれだけの日本人が自決したことでしょう。
僕は池波正太郎の小説も好きですが、そこでも多くの侍の死が描かれています。
いつも思うのは元来、日本人の死生観というのは(侍だけかもしれませんが)意外にあっさりしている。
死ぬということが日常よくみられ、特に武家に生まれたからには幼いころから死を覚悟しながら生きていたのかもしれません。
明日生きている保証は何もない。
そして自分の死は自分だけのものではない。
死んで詫びる、責任をとる。
これは潔いとも言えるし、逆に無責任とも言える。
ただ今の政治家や官僚たちにこれだけの気概があるでしょうか?
僕が生まれてから今日まで、本当に責任をとった人というのは見たことがありません。
今は正直言って見苦しいくらいに死ぬことを怖れ、生きることに固執している気がします。
生きるといっても、トップページで書いているように生き生きと生きているわけではありません。
単に舞台から退くのが恐いから舞台のどこかに居るだけでも居たいという感じ。
やり残したことがあるというのもすべて現世的な問題でして、やり残しということそのものが幻想です。
そんなものは誰一人とってもありません。
今、この瞬間にあなたがこの世を去っても、あなたにはやり残したことなどないのです。
本当は、やり残したことがない時にしか逝かないようになっている。
そもそも生きるということが何かもわかっていないのに、生きることに固執するのはおかしいじゃない?
そして死ぬということがあるから、生きているこの一瞬一瞬が珠玉の時になる。
本当は生命は死なないので生きているというのもおかしいのですが、まあ物質的な肉体に宿っている期間という言い方が正解でしょうか。
超一流のゴルファーはインパクトの瞬間、後ろで爆弾が落ちてもわからないでしょう。
それくらい集中しているといいます。
僕たちは自分の前に現れる風景を楽しむために生きているという言い方をよくしますが、この場合の風景は周りのギャラリーではありません。
あなたの目の前のゴルフボールただひとつが、あなたの経験なのです。
よそ見をすると何が自分の人生だかわかんなくなっちゃいますよ。
下手をすると他人の人生と自分の人生の境目も明瞭でなくなってしまいます。
「エゴイストで行こう!」とはそういう意味でもあるのです。
2011.7.26