悟り(気づき)はどこから来るのか?
昨日は奈良県歯科医師会で学術委員会主催の加藤武彦先生の総義歯の実習セミナーがありました。
患者さんに来て頂いて、加藤先生が合わない今の入れ歯を改造していって、最終的にはピタッと吸いついて噛んでも痛くないように一日がかりで治療していくのを見学するのです。
自分で言うのもなんですが、主催者側(つまり僕たち学術委員)の不手際でかなり加藤先生はじめ参加者の皆さんに迷惑をかけたと思います。
あまりに不手際ばかりなので、途中で笑いが出てくるくらいでした。
何とか終了してかなり疲れましたが、それでもおもしろく有意義なセミナーであったと感じます。
次はもっとスムーズにいくように・・・・というか、次もやんの?(笑)
最近はお手軽ディクシャセミナーのお蔭で、ディクシャギバーになる人が急増しています。
ギバーになれば色んな苦しみから解放されるんだと期待されている人も多いことでしょう。
そして期待を裏切られた人も多いことでしょう。
そもそもその期待が間違っているのだけれど、ディクシャが何の影響も与えないことは本当はあり得ない。
前にも書きましたが、やはり感謝のない人は変化を感じられないようです。
でも感謝をしだした途端、新たにディクシャを受けたわけでもないのに、以前受けたエネルギーなのか何なのかわからないけど、サッと身体の中を流れる、なんてことが起こったりします。
そしていろんな気づきがやってきたりします。
そもそも感謝とは何か?
感謝とは自分を見つめるということです。
あ、間を飛ばし過ぎました。
今の何とかしたい、何とか変えたいという状況がある。
そこで非常に悩みや苦しみを抱えてしまう。
そうなっている原因は、〇〇が悪いんだ、〇〇のせいなんだ。
(この〇〇に”わたし”を当てはめている人も少なくありません)
このように被害者面をすると物事は停滞します。
そんなところに気づきはやってきません。
すべては自分自身を見る鏡です。
すべての対人関係、出来事に対する自分の感情。
相手がある、出来事があるから苦しいのじゃなく、その時の自分の気持ちが苦しいわけです。
じゃあ、すべて自分の問題じゃん。
それを自分の問題として、その感情から逃げることなく、そのまま居続けると自分の姿が見えてきます。
なぜ苦しいのか?
それは過去にあった出来事の際の寂しい感情をいまだに記憶として引きずっているから。
それが見えてきます。
そしてそのうちそれがそれで良かったのだと思えるようになります。
それが自分の個性を作っているから。
それが、わたしだから。
すると自然と感謝するようになります。
するとあれだけ何にも変わんないと思っていたのに、不意にエネルギーが身体におりてくるのを感じるようになります。
するとすべてのことがどうでもよくなってきます。
するとなんだか楽になって楽しくなってきます。
人生、楽しもうという気になってきます。
ディクシャを受けたから自分を見つめるのじゃなく、勇気を出して自分の情けない姿を見るとディクシャのエネルギーが浸透して、いろんな気づきがやってくるのです。
ディクシャとは自分と自分の内なる神とを結びつけるエネルギーだと以前に書きました。
気づきは外側からやってくるのではありません。
このブログからやってくるのでもありません。
あなたの中からしかやってこないのです。
そこを勘違いしないでください。
メッセージを書いているのは、それで何かを教えようとしているのではありません。
伝えたいことはただ一つ。
すべてはあなたの中にしかない。
そこに気づいてください、ということです。
神を外側に求めると、あるいはこのホームページに答えを求めると失敗しますよ。
悟りは与えられるものという言い方をしますが、それは修行して会得するものじゃないという意味合いで言っています。
悟りはあなたがあなたに与えるもの、それが正しい言い方かもしれません。
だから自分でつかむものだという言い方も出来なくはない。
今に集中して、常に今の自分とともにいると、知らないうちにあなたは自分の望む姿に変身していますって。
こういった悟りは波上にしか進みません。
サインカーブが少し上昇気味にあるということです。
気づきの後にまた落ち込みがやってきますが、その後にまた気づきがやってきて、の繰り返し。
でも全体としては確実に上向いているということです。
Namaste
2011.8.22