インド紀行 その5~感情の浄化と解放~
先ほど気がついたのですが、NHK連続テレビ小説「てっぱん」の今週のテーマは「家族のつくり方」だったのですね。
これ以前に書いた「家族のしあわせ」の主題なんですよ。びっくりしたぁ。
インドに来れば、空気を吸うだけで下痢をするとまで言われたりします。
しかしGC2のキャンパスも水も食事もすべて清潔な状態です。
この頃になってようやく下痢が続いたのは肉体の浄化だったのだということが何となくわかりかけてきました。
また初日から他の人にはいろいろな神秘体験があるようで、正直焦っていたのですがようやく僕にも体験が起こり始めました。
体験というのは勘違いされやすいのですが、必ずしも神秘体験のことばかりをいうのではありません。
それよりも、自分の内面に深く入っていくことによる気づき、そしてそれを支えてくれているプレゼンスの存在に気づくことなのです。
それに感謝しだすと、どうやら体験はますます加速するようです。
なお、本文は原則として日記に書いてある表現をそのまま転載してあります。
さて本日は・・・
コース開始5日目
インドに来る時にはしゃいでいたオジサンは上島竜平似。
3日目位に体調崩すも現在持ち直す。
だいたいこの人、ホーマの時に体が上下に痙攣してたもんなあ。
昨夜寝る前に考えた。
僕の人生、ずっと逃げてきていたことを。
自分が受け入れられないと感じると逃げてきたことを。
大学のジャズサークルでのビッグバンドを途中で抜けた時もそう。
教授とケンカして医局を辞めた時もそう。
広島の勤務先の歯科医院をやめたときも、ダーツのチームを抜けた時も、
いつも自分の非は棚に上げて、他人をバカ扱いして責めてた気がする。
横浜の勉強会もやめようかと考えてたもんなあ。
朝6時に屋上にあがると他にも3人いた。
空を見ると東に昇りかけの太陽、西に沈みゆく月。
これはまさにアグニャヤチャクラ(第三の眼)のチャクライメージではないか!
朝のセッションが始まる。
プレゼンスを呼んで、意図によるディクシャをするそうだ。
目を閉じてしばらくすれば始まりますと言われたが、
「うわ、来た!」とエネルギーを感じた瞬間に「今、ディクシャが始まりました」とダーサジー。
シャバアサナの姿勢になり完全に熟睡モード。
でも、夜寝る前にディクシャを受けるとあかんわ。
全く眠れなくなる。
9時からの朝食には白粥があった。
思わず持っていた柿の種を上にのせてかき込む。
日本茶のティーバッグではじめてお茶を飲む。
ようやくサンドイッチが食べられるようになった。
パイナップルにオレンジ、そしてシリアル。
なんかどんどん元気が出てきたぞ!
10時からのセッションでは出ました!サムスカーラシュッディ(溜まっている感情を吐き出し、浄化すること)
え~!?そんなんやるんやったら前もって言うといてよ~。
心の準備ができてないでぇ。
僕これが一番苦手。
目隠しするとはいえ大勢の中でわめき叫ぶのはつらい。
でも大事なプロセスなのででプレゼンスを呼んで協力してもらう。
人生でつらかったこと、悲しかったことをプレゼンスに話し体で表現する。
感情の澱(おり)は日本のケビンのセミナーで出尽くしたと思っていたけど、不思議とプレゼンスが体に入ってくると涙が出てきてその中で気づくことがある。
女の子に振られたこととか、あまり重要でない人に傷つくことを言われてもそれらは大した心の傷にはなっていないこと。
一番つらかったのは信用していた人が自分が苦しんでいる時に助けてくれなかったこと。
それらの思い出を詳細に見つめていく。
でも今はそれらの出来事に不思議と怒りはわかない。
ケビンのセミナーの時はあったのに。
少しだけ泣いてあとは平穏な気分。
むしろ「悲しみをありがとう」という感じ。
周りの人は(目隠しで見えないのだが)泣いている、怒っている、叫んでいる。
「俺はいいやつなんかじゃねえ!」
「お前たちに飯食わすために働いてるんじゃないっ」
「死にたかったらとっとと死ね」
「愛が欲しい」
「親友が欲しい。今まで一人もいなかった」
「こんな自分が嫌だ」
「死んでしまいたい」
「神様のバカヤロー」 etc・・・
私は祈った。 プレゼンスに祈った。ここいいるみんなのために。
あなたの愛でみんなをつつんでください。
あなたの愛でみんなを導いてください。
あなたの愛をみんなに感じさせてください。
すると他人の泣き声に自然と涙が出てくる。
みんなの悲しみは私の悲しみです。
みんなの喜びは私の喜びです。
僕はなぜかしら滋光和尚に教えてもらった祈りの言葉を繰り返し唱えていた。
「願わくは 尽きることのない光明が わたしや家族の分け隔てなくすべてにおよび
悩める人々も救われゆかんことを 十方三世一切の諸仏 諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜」
どうぞわたしをあなたの僕としてお使いください。
ダーサジー曰く
「自然に囲まれたらどんな気持ちですか?気持ちがいいですよね。では多くの人間を見るとどんな気持ちになりますか?」
「・・・・」
「赤ちゃんを見ると誰でも心安らぎます。それは赤ちゃんが感じたことをそのまま表現しているからです。それが段々型にはめられて喜怒哀楽を出せなくなって内側に溜め込んでしまっているんです」
その後、ディクシャがあり1時半終了。
空腹とディクシャでフラフラだ。
食欲大である。
カレーや辛いスープも飲める。 美味しい。
お粥にふりかけ、バナナ・・・と思ったら、このバナナ皮が剥けないくらい硬い。
熟してないもんだすな! もったいないけどゴミ箱へ。
僕は日本にいる時に少しプレゼンスの存在を感じていた。
でも昨日は本当に身をもって感じさせられた。
他の人はどうなんだろう?
プレゼンスを感じられないとこのセッションはつらいだろうな。
こういう感覚は、この場所でこの人数でやるからこそ得られるものだろうか?
ちなみに枕がなくなったので、枕なしで寝るとベッドのスプリングが頭に当たって痛いんですけど。。。
でもまさか、こんなに書くことがいっぱいあるとは思わなかった。
一冊の本になるね、こりゃ。
4時から午後のセッション開始
午後からも感情の浄化・解放だったらきついなあと思っていたら、もっとスゴイものが待っていた。
人生において逃げてきたといえば、人生そのものから逃げようとしたこともあったなあ。
あの本当につらかった時、近鉄電車のホームで思わず飛び込んでやろうかという考えが心をよぎった。
それによって、「みんなお前らのせいじゃ、ざまあ見ろ」と思い知らせてやろうという気持ちがあったもんな。
でもあの時もプレゼンスが助けてくれたのかもしれない。
バガヴァン曰く
Life is relationship 人生とは人間関係である
その中で最も大切なのが両親であり、父親との関係が整っていないと経済的な問題を抱えるようになる。また母親との関係が整っていないと人生で幾度となく障害にぶつかることになる。
次に今までの人生の中で自分が傷ついたと思っている人との体験をみつめていく。
まずは母親から。
母をイメージし、母に抱いてきた感情、許せない出来事、傷ついたことなどをすべて思い出す。
するとふと気づいたことがある。
母親の立場になって同じ出来事をみたらどんな気持ちなのだろう?
母は本当に父に愛されていたのだろうか?
母がお寺の6人兄弟の長女で生まれてきたこと。
祖母が非常に厳格な人であったこと。
その後女学校の先生をし、西塔家に後妻で嫁いできたこと。
僕は西塔家では末っ子だが、母にとっては唯一の長男であること。
・・・・・・いろいろなことを思っていくと、母親の孤独な気持が少しわかった気がした。
ん?周りはスゴイことになってるぞ。
次に父親、そして妻。 娘、兄、義理の姉とずっと見なおしていくと、もう「ごめんなさい」という言葉しか出てこないのよ。
母親との関係を見ている時には泣いている人が多いのだが、父親の時はわりと静かで、どちらかといえば怒っている人が多い気がする。
父親って損やなあ。
今夜もまたコスミックビーイングとの瞑想だ。
床にくずれ落ちそうになる位ぐたーってなんねん、これ。
夕食に何の味もついていない、ゆがいただけのスパゲッティが出た。
イタリア料理なのか、これは?
とりあえずケチャップを山ほどかけて食べる。
今日はもう、くたくた。
疲れたぁ~。
2010.11.6